邪神倶楽部

忌屋いむや南北なんぼくは土気色に近い血の気のない顔を、頭上の曇天そのままに翳らせ歩む。煤けた煉瓦敷の往来はいつになく混み合って、若い学生の外套が、路電の車体を危うくかすめてはためいている。両脇に連なる店の華やかな陳列窓、目を向けた先には、山高帽を戴いてステッキを振り回す紳士。その腕にからみつく少女が薔薇色の眼差しを注ぐは、マネキン人形の纏う穢れなき白の外套。おそらく鼬ではなかろうか。外套一つにどれほどの鼬がいるものか、忌屋には見当もつかぬ。羽織の袖の内で腕を組み、晩秋の風に身をすくめながら、居並ぶ商店の尽きるあたりから闇雲に吹き抜けてゆく風に、褪せた鳶色の髪を乱されるまま家路を急ぐ。下駄の歯が煉瓦を噛むたび、心の臓が震える様な心持ちがする。心安からず、歩む足取りは外気温と人波に責っ付かれて前へ前へと押し出される。なれば彼の心臓は悪路を行く馬車さながらに揺れ続け、門を開け、ひそやかに玄関口の戸を引く頃にはすっかり弱り切ってしまっていた。
 戸の動く音を耳ざとく聞きつけて現れたのは下女のお春ではなく、彼の妻、雪絵であった。
「まあ、こんなに早くお帰りなすって」
「ウン、寒くて気分が悪くなったから早めに退散する事にした」
「お外は寒かったでしょう。そんな所に突っ立ってないで、火鉢にお当たりなさいな」
「そうしよう」
 忌屋が下駄を散らかしながら式台に上がると、雪絵は淀みない動作でそれを揃え、夫の後ろについて部屋に這入った。畳の上では、ぽっくりとした丸い火鉢が、釉薬の青を艶々させて鎮座していた。忌屋はその傍に陣取って、幾分大ぶりな掌を向け、「ああ寒かった」と溜息をついた。雪絵は真向かいに膝をつくと直ぐに、「お茶を持ってきましょう」と慌ただしく立ち上がって出て行った。忌屋は無言で頷いて、火鉢の灰に半ば埋もれかかった炭の、赤く燃えているあたりを只ぼんやりと眺めて待った。暫し間をおいて、急須と湯のみを載せた盆を手に、雪絵が戻ってきた。冷えた胃に茶を流し込むと、忌屋の心臓は漸く一息ついたといった具合に弛緩し、熱い息を吐き出すのに合わせて、彼を無闇と急がせた不安が、ぽつりぽつりとこぼれ出た。
「御前、僕が厭になったら何時でも出て行って構わないからね」
「何を仰るの」雪絵の目が素直な驚きに丸くなる。「さては同窓会で何かおありになったの」
「何かあったという程じゃないんだが、話題が、僕の様なものは少々不安になってしまうたぐいのものでね」
「道理でひどく顔色が悪いと思った。さ、もっとお茶を召し上がりなさいな。厭だわ、妾ったら貴方を何時迄も余所行きのままにして……着替えを持ってきますから、楽になさって」
 襖がするりと閉まると、再び一人残された忌屋の胸中に、同窓会での会話がふつりと浮かびあがり、帰宅の道中何遍も反芻した例の場面が、今一度封を切られて眼前に広がった。
 五人の男女が円卓を囲み、それを、一間の距離を置いて四方から黒漆喰の壁が取り巻いている。上座から、灰色の髭を顔の下半分に茂らせた波知塵鳩郎、猩猩緋に無数の目玉を毒々しく染め抜いた袷の着物に派手な金糸の帯を合わせた郷家時子、くすみきった風合いの長身に気弱げな顔をぶらさげた我らが忌屋南北、ツイードの三つ揃い姿で爪を噛む郁連暁、童顔に人懐こい笑みを浮かべる塩井似凝、以上の面々が誰とも無しに世間話をしつつ、メーンディッシュが運ばれてくるのを待ち受けていた。
「ところで郁君、彼女とは上手くやっているのかい」と話しかけたのは塩井である。彼はめかし込んだ一同と比して、馬乗り袴に皺だらけの絣の単衣といったやや貧相な出で立ちである。問いの先は七三に髪を整えて澄まし顔の郁であるが、友人の格好に頓着する様子はなく、爪を噛んでいた指を顎の下に置いて、気だるげに返答する。
「まあまあだね」
「それは何よりだ」塩井の代わりに、自慢の髭を掌で撫で付けながらこう述べたのは波知である。「もう見せたかね」
 郁は大仰に椅子の背に凭れる。
「残念ながらそいつがまだでしてね。どうも、彼女には耐えられそうにないと思う」
「アラ、じゃあやめときなさいよ、そんなの」
 口を挟んだのは郷家である。彼女は蝋のような白い指で、卓を二回叩き、郁の方へずいと身を乗り出した。
「毎度毎度そう不安がってどうするのよ。ねえ、南北君」
「ウウン、そうだなあ」
「そうだ、南北氏、あんたの細君はどうだった」今度は郁が、郷家から逃げるように卓に肘をつき、前に乗り出した。
「僕の妻は、別段気に留めなかったよ」
 これを聞くと塩井が、「フウン」と喉元から感心の音を漏らし、羨ましさを滲ませた言葉を継いだ。
「いいなあ。忌屋さんの奥さんは随分しっかりしたお方ですね。僕の最初の恋人なんて、アッと卒倒したっきり、僕のことは全部まるきり忘れてしまったんですから」
「ああ、憂鬱だね。よし僕らの姿に耐えうる精神の持ち主、あるいは愛情の持ち主だとて、さらに悍しい事実を知って平気な顔ができるとは限らない訳で、とはいえ深く交際するにあたって、隠蔽を貫いていられる程薄情になりきれない」
「悍ましい事実……」と、肘付きして爪を噛みだした郁に向かって、忌屋が言いかけたちょうどその時、漆喰の一部分へ四角に筋が走り、それが向こう側へ引っ込んで、キイと微かに鳴り、戸という本性を現した。その後ろから、銀のワゴンに料理を載せた給仕の女が這入ってくる。一同はそわそわと居住まいを正し、大ぶりの白い洋皿が目の前に運ばれてくるのを、固唾を呑んで見守った。
 仕事を終えた給仕が黒漆喰の後ろに消えると、卓についた五人は各々の前の料理を覗きこみ、波知の「それでは頂こうか」との音頭に合わせ、皿の中央に鎮座したビステキにナイフを入れた。血の滴るようなレア。これを見るや、全員が嬉しそうに舌なめずりした。
「やはりこうでなくては。実に美味しそうじゃありませんか」
「ああ、僕は思わず戻ってしまいそうになった」
「郁君、それは冗談だろうね。君はどうも興奮しやすくて不可ない」
「ちょっと、止して頂戴よ。まだチーズとデザートが残っているんだから」
「ウン、ウン、美味しいね」
 このような遣り取りが、肉を頬張る合間に挟まれた。塩井以外は紳士・淑女然としているにも関わらず、我慢しかねると言った調子に肉を貪る様子は、どこか野獣じみて、品性を欠いている。
「矢張りお肉に限るワ」
 郷家は美貌に笑みを湛えて恍惚とした。
「ルーマニアでの贄の味を思い出すね。波知さんは、どういうのが好みだったかな」
「儂はやせ細ったのを幾つもいちどきに、というのが好きだったよ」
「食べる所がないじゃありませんか」
「それがいいのさ。あの骨ばって肉の少ないのをしゃぶっていると、太ってるのと同じかそれ以上長く楽しめたものだ」
「そんなもんですかね」
「妾は若くて筋肉質なのが好きだったわ。密度があるのに柔らかくて、丁度今食べてる、こんな感じよ」
「実を言うと僕もそういうのが好きでね、たるんだやつなんか寄越した日には雷を落としてやったさ」
「随分我儘だこと。尤も、妾だって人のこと言えやしないわね、同じ様なことしてたんですもの」
「ハハハ。ときに、忌屋さんはどうです。確か長いこと太平洋の、島の方にいらっしゃったんですよね」
 塩井は左隣の忌屋に、血腥い話題を振る。忌屋は我に返ったと言わんばかりの呆けた表情を、口の端に付いたソースと共に、ナプキンで一瞬のうちに拭い去り、答える。
「僕は極端な肥満体や痩せ細ったものでなければ何でも良かったよ」
「成程ネ、忌屋さんらしいわ。欲がなくて」
 一同の間に、さざ波のような笑いが起こる。一足先に切り上げた郁が、残った肉片に、ナイフをざくりと入れながら、頸をやや傾けて、にんまり笑みを浮かべ、話しだした。
「然しね、なんだ、少し前の話題を蒸し返すが、こんな話をしているのだって、普通の人間達にはどれほど恐ろしいことか知れないぜ」
「流石に忌屋夫人も面食らおうね、これには」
「もう、波知さんったら意地悪でなくって。そんな風に引き合いに出したら忌屋さんが可哀想じゃないの」
「ヤア、本当だ、あんなにショックを受けている」
 その時の忌屋は、傍目に見ても萎縮しきって、項垂れ、殆ど空になったビステキの大皿を、穴のあくほど凝視しながら、下唇を噛みしめているばかりであった。周囲の朋友らは、この状態が数秒に渡り変化を見せぬ事に戸惑いを覚え、気まずげにチラリチラリと目配せを交わし、誰からともなく、口々に慰めの言葉をかけた。だが、その中で忌屋に届いた言葉はひとつたりとてなく、只、この楽しみの場がしらけかかっている、という印象を与えただけだった。それで彼は、慌てて取り繕い、急にぱくついたので肉を喉に詰まらせたのだ、という下手な言い訳を展開した。気ごころ知れた仲間には、もはや心配も謝罪も不要であると直ちに了解できた。なれば各人須らく、直前の食事の雰囲気を取り戻すのみである。後は和やかに進んだ。しかし忌屋の心中では、無意識のうちに、細君にひた隠しにした、忌まわしい過去の事実が何かの拍子に露見した時起こりうる最悪の場合が、不愉快な染みをつくり、珈琲カップを空ける頃には、ジクジクと痛みを発し、猛烈に彼を苛んでいた。
 雪絵の持ってきた着古しに着替え、綿入れを羽織ると、火鉢の熱と茶の温みも相まって、忌屋の気も少しずつ緩んできた。雪絵は、茶を啜る夫の向かいで、何も言わず、炭の赤の未だ煌々としたところを、じっと見つめている。夫婦の間に、安らかな沈黙が降りた。壁の時計がコチコチと空気を刻み、室の温度に、秩序らしさを加えている。そのうち、寝間着に収まった忌屋の身体が、繕いに過ぎぬ人間性からほぐれだす。すなわち変身である、目鼻や指といった造形の仔細は肉の表面に溶け、十尺以上に及ぶ丈の、肥えた脚のない蜥蜴を思わせる白い胴体から、大小様々の触手が出鱈目な位置から飛び出して、畳の上で渦巻き模様を描いた。胴体から出る何本かは、三つの関節を含む骨格と、先端に鉤爪をそなえ、あるものは畳に掌底をついて身体を支え、あるものは着物の袖を通り、火鉢に向かって、不揃いな数の指を広げる。着物の襟から突き出た頸の先には、猛禽と、蟾蜍と、土竜とを一緒くたに取り混ぜた造形の頭部が鎮座し、大きく裂けた口内に並ぶ高い円錐の歯が、その内側には、もう一対の肉色の顎が、外周のものよりふた回りほど小さな牙を規則正しく揃えている。側頭部には瞳孔を縦に割った鳶色の眼が横並びに二対、額の正中に、同様の眼がひとつ、いずれも瞼を半ばに下ろし、安寧に揺蕩うまどろみ、この夢とも現ともつかぬ曖昧な平穏を享受していた。
 身体の芯まで温みきって、忌屋の精神が完全に夢の方へ傾きかけた丁度その時、彼をヒポコンデリイの境地に追い立てていた鬱陶しい不吉な話題が、唐突にむくりと鎌首をもたげ、彼の心臓に牙を立て、毒液を流し込みはじめた。忌屋の五つの眼はにわかに恐慌の色を帯び、無闇とぎょろぎょろ動きだした。
 忌屋南北は異形の化物である。その昔、太平洋の名も無き島々で、民草の捧げるままに生贄を食らい、対価として豊漁をもたらした、数多の土着神に連なる一柱である。混沌より形を成し、後に誕生した人類の原始的な知性の上に君臨してきた彼は、他言語の表記を拒む、かの部族の言葉により、畏怖と巧妙に隠された侮蔑とをもってその名を表されていた。この名はガレオン船の上陸に際し闇へ消え失せ、土民に擬態し交易品と共に渡った欧州にて、彼は新たな名を得た。すなわち、ヒトの名である。白人の商人としてユーラシア大陸をうろつき回るうち、いくたりかの同胞と巡りあうが、それこそ件の同窓会に列席した、波知塵鳩郎、郷家時子、郁連暁、塩井似凝の四名である。彼らも出身は違えど、忌屋と同じく異形の神として贄と引き換えに恵みをもたらした原初の神格であった。波知はアフリカから忌屋と同様欧州に渡り、郁と塩井は元来この地で信仰を集めていた。十六世紀半ばには、魔女狩りの席捲する大陸の西側を離れ、東へ移動した。移動先の明で一行は郷家と出会い、清の衰退に伴って日本へ渡り、そこで各々ヒトとして生きることを決心した。もはや人類の繁栄に異形の潜み棲む余白は存在せぬ。彼らはヒトに紛れ、それぞれ新しい生活を始め、今日に至っている。
「矢っ張り変よ。どうなさったの」
 夫の変調を察した雪絵は、忌屋の傍近く座り、彼の腕を悠くりと撫ぜた。
「なあ、僕は、昔の話はしていなかったね」
「清の方にいらっしゃったんでしょう。それと、欧羅巴に」
「その前の話だ。実はね、元々僕はここからそう遠くない島じまの一つに、棲んでいたのだ」
「じゃあ、ぐるっと回って戻ってきたのね」
「あのね、御前、僕が言いたいのは、そこで僕が何をしていたのかということなんだ」
「何をしてらしたの」
「それは、」彼は息を詰まらせた。「生贄を食らっていたのだ」
「そうなの」
 彼女がどれほど驚くか、その推測ばかりしていた忌屋は、反対に、ひどく面食らってしまった。雪絵の声色は平生と変わらぬ調子で、夫を撫ぜる手つきにも、何ら変化は見られない。只一言、そうなの、と言ったきりである。
「僕の言ったことがよく聞こえなかったか。それとも、難しかったか……」
「ちゃんと聞こえましたし、分かりましたよ」
「でも御前、僕は人身御供に処女を食らっていたのだよ。恐ろしくはないのか」
「よし人を食らっていたからといって、それが何です。こんな事言うと貴方を傷つけるかもしれないけど、貴方がこういう生き物だって知って、その上で結婚したんですから、今更生贄くらいで驚いたり、厭がったりするものですか」
「でも、いつか御前を食らうかもしれないよ」
「そんなの覚悟の上よ。食べたいなら、構わないからそうして頂戴」
 雪絵は真剣らしく手を止めて凝と忌屋の額の瞳を見据えている。忌屋は、今度は胸を詰まらせて、五つの瞳でこの視線に答えた。
「どうか許しておくれ、御前の愛情を疑ったりして、僕は非道い夫だ」
「非道い夫なものですか」
 火鉢の炭が灰をこぼしてほんのりと温まり、深々と更くる夜のなか、夫婦は寄り添い合ってもはや何も言わなかった。
 異形も繁栄もなく、ただここに在るのは、ひと並の幸福のみである。