パンタ・ジタバは愛機に乗った。十年のローンを組んで買った、それでも二世代前の長距離航行用宇宙船は、よく倉庫で寝かされた機体にありがちな化学繊維と塗料の匂いに満ちている。流線型のボディは彼の希望とディーラーの好意によってミント・グリーンに塗装され、所有者たるジタバはこれでなかなか、最新モデルにも負けないスタイリッシュな仕上がりになったものだと満足していた。船を彩る爽やかな青緑色は彼の肌の色とほとんど同色で、ンア人のディーラーは赤銅色の顔に微笑を浮かべながらも、内心ではアマゴア人のジタバが新車の前に立つとどこからどこまでが彼だか分からなくなってしまうのに苦笑しながら、新車とそのオーナーの記念写真を撮った。写真は毛髪と白目と歯を除き、だいたい緑一色になった。それまで大した旅行もしないで暮らしてきたジタバが長距離航行用船なぞを買ったのは旅行のためで、まるまる二年のあいだ放ったらかしにされた申請が通ったのはつい先週のこと、交通局と環境局を行ったり来たりした文書はようやく地球行きの切符に変わり、彼は〝地球行き〟が受理された通知を受け取るとすぐさま職場へ休暇の届けをして、出立の日取りを決めたのだった。それから大人しい彼にしてはとびきり有頂天になって妻や友人に電話をかけまくり、逸る気持ちや膨らむ期待に邪魔され業務をかなりおろそかにしながらその日の労働を終えると、いそいそと寄り道をして新しい宇宙船を受け取った。それがジタバに滑稽な写真を撮らせたミント・グリーンの愛機だった。
 ホモ・サピエンスが宇宙に出てから幾星霜、あちらこちらに散らばった種は幹こそ共通してはいたものの枝葉のほうは自由に伸ばし、あちらでは色彩が、こちらでは部品の数が、徐々に作り変えられて固定され、人種という単語が同一の色相における差異を表すのもはや神話の御世の話となった。神話から名付けられた星の庇護の内に住むアマゴア人は、かたちこそ純粋な地球人とそう大差なかったが、美しい──と彼らは言う──青緑色の肌と血と、首の付け根、顎骨の下あたりには必要に応じて開閉可能な鰓をもっていた。水に入れば即座に肺呼吸から切り替わり、空気がなくとも生きていられる。アマゴア人の例に漏れず、ジタバも水泳が大好きだった。指を広げれば柔軟な手掌の皮膚が骨と共に広がって水かきの役目をした。とはいえ曾祖父の曾祖父のそのまた曾祖父の……といった具合に伸びる家系図の根元には当然ながら地球人の名が埋まっており、その男は第十六世代の移民の一人だった。既に遠い過去というよりおとぎ話に近しい調子で語られる宇宙移民時代は、波乱と苦難の時代だったという。余剰の人口に留まることを許さずまた規定に背いた帰還を罰した故郷、自分達を追い出した故郷を、それでも元地球人たちは愛情をもって振り返った。終の棲みかを他の星系に見つけたものもそうなれなかったものたちも母なる星の汚染される前の森や海の話で息子や娘を寝かしつけたので、人類という種を生み出した星の名は、次世代に憧憬の念を抱かせずにはおかなかったのである。
 ジタバの父親も息子に対して爺さんがそのまた爺さんから聞いた話をよくした、のみならずわざわざアーカイブから地球の映像を取り寄せて、夜更かしの秘密とともに海面が浅瀬の底に描く光の紋様を二人で分けあったものだった。乳白色の壁も天井も遥かなマリン・ブルーの過去に沈み、その太古の生命の揺りかごを映すスクリーンには移民の末裔たちの水かきのついた手の影が、見たこともない生き物の輪郭とともに踊った。ジタバは祖先らの海で遊び、夢に見た、いつかこの海で二重らせんに刻まれた記憶を自らの肌と結びついた本物の体験とすることを。成長の過程で空想は経済や生活の苦労に埃めいて煌めきを失ったが、しかし希望は損なわれずに残った。お役所仕事に見切りをつけて(あるいは厳しすぎる条項に気力を吸い取られて)諦めていく友人や同僚たちを尻目に、彼は堅実に積み立てた数字の桁と書類の枚数を数えながら、忍耐強く要件を満たし機が熟すのを待った。そしてようやく努力は報われる日が来たのだった。
 出立の数日前になると、彼はささやかな集まりを開いた。会には幼少期からの知己を招き、狭い自宅で用意できるかぎりの酒と食事とを忌憚ない談話で囲んだ。妻が呆れ半分の笑みを添える食卓は、各々がもつ地球への憧憬を分かち合う場となった。
「素晴らしいじゃないか、ええ、うちの重役がむこう三年音沙汰なしって具合の申請をだよ、我らがパンタ・ジタバがくぐり抜けたというんだから」と食品会社の下っ端社員であるところのペンタ・グドトが円錐型のグラスを揺らして乾杯の仕草を繰り返した。彼は休日を前にしたこの日の会合が始まる一時間も前からすっかり聞こし召していて、額から耳の裏から襟をはだけた胸元まで、一様に濃い青緑色になっている。彼は肥えた体を揺らして遠雷のような笑い声をたてた。「いや実に素晴らしいことだ!」
 いや素晴らしい、素晴らしい……という半ばうわ言のような賛辞に、向かいに座るチジシ・タジシ・カが揚げ物の皿を景気よくつつきながらうんと頷いて同意した。彼は場に唯一のンア人で、赤銅色の長い顎と灰色の縮れた頬髭を後ろ向きに撫で付けた様子はいかにもンア人教師らしかった。
「そうともさ、君ねえ、僕らにも分けてもらいたいもんですよ、君の忍耐はまったく素晴らしいもんです。お役所をいくつもたらい回しになるわけでしょう。同僚が──といっても期限雇いの清掃員なんだが、これが気持ちのいい男でね! 中学を出たばかりなんだが、実家が古本屋だというじゃないか、それでもって──ああ失敬、彼の話はもういいですね──同僚がいうには、そこで単純な観光客気分の人間をふるいにかけているそうですよ。すぐさま荷造りできないと知るとあっさり申請を取り下げてしまうんです。結局、その手合いはどこか地元じゃない場所で飲んで騒いでおれれば満足するわけで、ばか騒ぎが主眼なんですな。地球は空き瓶や吸殻や吐瀉物なんてのを大層嫌っているんでしょう、いや君に向かって地球の潔癖主義に関する講釈を垂れるのは恥ずかしい限りなんだが、つまりね、話の焦点はがらくたや屑を許さない地球の門戸を叩くに至るには生半可な覚悟では準備もままならないわけで、何年も呼び出しをくらったりせっついたりしながらいつ出かけることになってもいいように辛抱する、こいつを所帯もちがやるには……協力が不可欠ということじゃありませんか?」
 ここでチジシの隣のアマゴア人、プンタ・ズグイが着地点のぶれる長話を引き取りこう言った。
「確かに、ジレビには随分と苦労をかけただろう。ジーレ、君みたいな美人を置いてけぼりにしていくとは馬鹿な亭主だと思わないかい?」彼は〝過激派〟の単語で括られる芸術家グループにありがちな刺青だらけの腕を組んでみせた。その図案は彼らが好んで用いる数学的に均衡のとれた新言語による何らかの意思表明で、古株であるズグイのは百科事典ばりの分量があり、自慢だった。「旧弊な倫理観が邪魔しなければ、どうだい、俺と食事でも」
 ジタバの妻、パンタ・ジレビは新しい肉団子の皿と空いた皿とを魔法のように鮮やかに交換しながら返事代わりにこの冗談を笑い飛ばした。いくぶん華奢だがしなやかに張った肩がくつくつ揺れるたび、緩い三つ編みにした髪も揺れた。彼女はジタバが一人で地球へ行くことを何ら咎めてはいなかった、むしろ夫が長年の夢を叶えることが嬉しくも誇らしくもあったし、彼女も彼女で一人の時間を目一杯楽しむつもりだった、というのもある。学生時代の友人たちと市内で話題になっている店をすべて回ってやろうと約束していて、正直なところあまり興味のない地球の海へついていくことになるよりも、夕飯の献立にわずらわされず羽を伸ばして過ごせる時間をもらえるほうがずっと望ましい展開だった。ジレビにとってジタバはおおむね申し分のない夫で彼女自身家事も嫌いではなかったが、お互いに好きなことをしているのだという安心感の中で堂々と遊べる機会はやはり魅力的なのだった。
 ジレビが台所へ引っ込んだあと、ジタバは今宵何度目か分からない質問攻めにあった。いくつかは申請に関連した繰り返しや焼き直しだったが、ここでようやく本題となりうべき地球での過ごし方へと話が及んだ。
「それでジタバ、君は地球の海には入れるのか? 向こうさんからしたら異星人なんか害虫みたいのものだろうからな」ズグイは真剣な顔をしたが、それが冗談でつくったものか大真面目で浮かんだものかは判然はっきりしなかった――彼にはやや陰謀論者的なところがあったのである。
「そりゃあそうですよ、この星でありふれた水虫かなにかがあっちの生態系を根こそぎに荒廃させてしまうかもしれないんだから」
「害虫どころか病原体さね」とグドトが肥満体を揺らした。尻の座りがよくなった彼はまた肉団子をひとつ摘まみあげながら、ズグイに向かって茶目っ気たっぷりに片目をつぶってみせた。「こんな辺境じゃ太陽系の話ときたらろくでもないのばっかりじゃないかい、え?」
「そりゃあもちろん、ただすんなりと入れてもらえる訳じゃないんだそうだ。七日そこそこ入管の施設で寝起きして、無菌状態にさせられるんだと……いや、もちろん始めにサンプルを採取して、帰るときには戻してくれるって話だよ」ジタバは細菌学の授業に身を乗り出してきたチジシを視線で席に留めた。「防護服を着るならすぐにあたりをうろつけるし、なんなら海中散歩だって楽しめるそうだが、僕はこの肺で地球の空気を吸いたい以上に、このえらで、地球の海を呼吸したいんだ」
 一同はしばし黙して透明な魚のスープをすすった。それから、ほとんど真緑に近いグトドが満面の笑みでそのよく肥った手の平を友人の肩に起き、チジシは感極まったと言わんばかりに湛えた涙をそっと拭った。ズグイは二口目のスープを下の上で転がし、喉を鳴らして飲み込んだ。嚥下の動作にえらぶたが連動し僅かに震えるのを横目に、ジタバは母なる地球の表面を包む、青い故郷の水を思った。
 またしばらく他愛のない歓談と飲み食いの時間が続き、二つ目の月が中天から転げ落ちる頃合いになると友人たちは別れの言葉と乾杯の余韻、そして最高の晩餐に対する惜しみ無い賛辞を残して帰っていった。ジタバは妻を手伝って後片付けをしながら(かなりの食べかすと飲みこぼしがあり床掃除の必要があった)やはりとりとめもなく旅行と海について話した。彼らはジタバの申請が受理されてから幾度となく同じ話題をダイニングテーブルやバルコニーの手すり、時には互いの肌の上に乗せて慈しんだ。目新しい展開もなくやりとりは常にほとんど同じだったが、それでも夫妻はこの会話をどうしようもなく愛していた。
「ジタバ、海の写真を撮ってきてね」
「もちろん」と彼は返し、重ねた大皿の端から芋のかけらをつまみ取って口に運んだ。「君の料理が恋しくなるだろうなあ!」
「お弁当をたっぷり詰めてあげるから大丈夫よ、少なくとも初めと次のジャンプまでの間はもつわね」
「タングハル・ステーションのワープゲートが壊れてなきゃいいんだが。この前なんて五基あるうちの三基が使い物にならなくなったっていうじゃないか。とんでもない混雑だったらしい……」
「めったに起きないことでしょう」と妻は夫の心配性、極端な前例を持ち出して大きな不幸ばかり考えるふりだけの心配性を笑った。「きっと予定通り着くわ」
「そうだね、本当にそうだ。残りの洗い物は僕がしておくよ、君は水浴びをして、先に休んでいて」
 ジタバは最後に卓上へ残されていた自分のコップを手に取ると、空いたほうの手でジレビの手の甲に触れ、その少しばかり油気の残った肌触りから、微笑で締めくくられた会話の余韻をすくった。人が訪れて去ったあとの家の空気は穏やかに満ち足りた密度に均され、住まいする二人をくるんですべての異常や逸脱から守るように普段通りの姿で生活音が、壁を隔てたどこかから聞こえてきた。

 そしてバンタ・ジタバは愛機に乗った。懸念されていたタングハル・ステーションのワープゲートは顕在で、何ら問題なく旅程は進んだ。もちろん何事もなくとは行かないのが金持ちでもない個人の宇宙旅行の常だから、乗り継ぎのカラクシャジャ・ステーションでは人工知能のストライキとゲート内での立ち往生の煽りを受けて二日ほど足止めされた。幸い地球行きの切符は連絡さえしていれば期間内の予定変更は柔軟に対応できるとのことだったので、ジタバは大いにのんびり構えて弁当を食べ、食べ尽くしてしまうと今度は食堂のメニューを朝昼晩と贅沢にさらった。途中、気のいいアマゴア人の長距離運転士とお喋りやわずかなコインを賭けたカードを楽しむ機会があった。運転士はもう五年は帰っていない故郷をしきりに懐かしがり、今の流行りを聞いて笑った。なんとかというれ歌を若い誰もが口ずさみ、それで大人を遠ざけているのだ、と話せば彼は義母に預けた娘のことについて触れた。妻は娘を生んですぐ他界し、十五になるその子に必要な額を稼ぐには短距離輸送の給料では追い付かないのだ、なにせとても優秀だから……と頬の深い皺をますます深く笑ませた父親は自慢げに語った。財布に入れたホログラムカードには、異国の風景を背にした少女の姿が次々に映った。義母と合わせた二人ぶんの生活費が、小山ほどもある輸送機の操縦棹にかかっている。彼はジタバの予定を聞くと、なるほど地球かそいつはすごい、うちの娘にもいつか地球を見せてやりたいもんだ、と素直な感想を漏らした。あなたの世界の中心はいつでも娘さんなんだな、と地球行きの旅行者は返し、二人は朗らかな空気の中で笑った。ストライキが解けるとどの機体も目的の方向へ散らばっていった、ジタバと運転士は別方向で、別れの挨拶は互いの車窓から、簡単だが十分親しげに交わされた。
 カラクシャジャからは順調な旅路に戻り、ミント・グリーンの機体は何事もなく銀河系まで辿り着いた。地球の玄関はその昔アメリカと呼ばれていた国の跡地に存在し、施設は病的なほど清潔で、それぞれの区画が厳格に隔離されていた。角という角に緩いアールのついた廊下や部屋のあちこちを始終有機的なデザインのロボットが這い回り、ゴミや埃やその他あらゆる不要な粒子を取り除く。施設では種々の検査と審査とそれからジタバ自身の調整のために、まるまる七日が費やされた。地球では異星人により持ち込まれるあらゆるものが警戒されていた、それは単なる物品や動植物だけでなく体内の微生物にまで及んでおり、訪れる者はみな徹底的に処理されてまっさらにさせられる。七日間のうち大半はその行程に費やされるが、というのも彼らが丸裸の赤子同然の状態になった来客を彼らにとっては未知の病原体ひしめく地球の大気に放り出すことはせず、第一に元々の細菌相の保存、次に滅菌、最後に調整したナノマシンの注入を行うからで、双方に無害化された状態になってようやく本当の地球の大地を踏みしめることができるというわけだった。ナノマシンの開発前は防護服なしでうろつけなかったというからな、とジタバは処置を受けた後、割り当ての小部屋の作りつけのソファに背を預け、ライブラリの映像を眺めながら思った。防護服! 軽くはあっても完全に外部環境と隔離された小さな密室を身につけてでは、どんな景色も画面越しに見る風景とまるでまったく変わらない。可哀想なのはその頃の地球を用があって出ていった地球人で、彼らは二度と裸足では故郷の土を踏めなかった。むやみと親しげな声色のナレーションで当時の地球人たちは承知の上で発ったものと説明されてこそいたが、本当のところはどうなのか、今となっては誰にも分からないぞ、とアマゴア人旅行者は写真に閉じ込められた英雄の笑顔を訝しげに眺めた。白い歯を見せる彼は家族に会うことなく死んだはずだ。
 それから映像が歴史を追想するのをやめて赤土の大地を映し出したとき、ジタバはふと郷愁にかられて胸が痛くなった。母星の土は八割がこの赤にそっくりで、残りはもっと深い紫がかった色をしている。赤く広がる平野へまばらな低木の影が落ちる様子などはまさに彼が生まれ育った星でもっともありふれた風景の一つだった。やがてミント・グリーンの薄い皮膚がミント・グリーンの瞳を隠しても、荒野は瞼の裏にどこまでも続いた。ソファはジタバの為にあつらえられたように完璧な座り心地で、居眠りには申し分ない。海の夢を見る。しかし夢はまだアマゴア人の馴染みの星の、白銀に近い波の間に漂っていた。

* * *

 海岸線をひた走るのは目的地が設定された自動運転のホバー・ビークルで、環境を汚染しないエネルギーで動いているとのことだった。チャンだかチェンだか、アマゴア人には難しい発音の係官が逐一説明してくれたのだが、ジタバは全く聞くどころではなく、逸る気持ちに流されて、すべて忘れ去られてしまっていた。ただ確実にビーチは近づいており、既に流れる景色の片側は紺碧の平面だった──波立つ平面。一時は悪臭を放ち濁っていた水も本来の組成で澄みわたり、無数の人工物が打ち上げられた浜辺にも今は自然からもたらされた物以外存在しない。乗物が音もなく静止すると、ジタバは下着以外の服と靴を脱いで裸足で砂地へ降り立った。一歩を踏めば手と同様にある足の水掻きの上に砂粒が乗る。しばらく歩くとくるぶしから下は薄く砂に覆われたが、濡れた部分へ差し掛かると寄せてきた波がそれを洗った。彼は水の感触に全身の細胞が沸き立つような錯覚を覚え、ぶるりと大きく身震いした。係官は今を冬だと表現し、南で暖かいとはいえ泳ぐにはもう少し待ったほうが良かった、と付け加えてはいたものの、アマゴア人は水の寒さはいとわない。彼はまた一歩踏み出した。膝まで潮に浸かり、次の一歩が重くなる。腰まで沈むともう泳ぎに入ったほうが良さそうなくらいになったが、ジタバは辛抱強く歩を進めた。そして小波が首元に遊ぶ程になってはじめて、彼は海面の下に潜った。
 陸の上では使われない別の瞼が目を覆う。空気に代えて水が吸い込まれるのと同時に呼吸器は切り替わり、気管は閉じられて新しい流れが開いた鰓蓋の隙間に生まれた。ジタバはその場で静かに呼吸を続けた。それまでに味わったどの水とも違う、強いて言えば遠い昔降った雨宿りの滴の香りが鼻腔を抜ける。淡々とした印象を翻すひと振りのスパイスは生命そのもの、目の届くどこにも細かな粒子が透き通る青を濁すことなく数限りなく浮遊している。魚群がこの背景と前景の間であちこちを過り去り、どの岩陰にも何らかの生き物の鰭や触手が密やかに揺れていた。食う食われるの絆と棲みかでの休息、次代を繋ぐための奮闘が満ち満ちた海中で、ジタバは何もかもを心地よく感じた。もう少し、広いところへ行きたくなって泳ぎだせば、五指の間を埋める四揃いの皮膜がそれぞれに水をかき、彼を大洋の懐へと運んでいった。古来より地球の文化において母に例えられてきた海を進む。すべての生命を生み育て分け隔てなく慈しむ母、見知らぬ星の水は二重らせんの内に確かに刻まれた故郷でもあり、水面に折りとられた陽光の中で、何万光年の彼方で生を受けた男の心に二重写しの郷愁をもたらした。見知らぬ情景に懐かしさを覚えるのは地球を訪れた異星系人に珍しくないことだった、おそらくンア人も山岳地帯の剥き出しの岩肌を前にし、ただ静かに立ち尽くすのだろう。
 海底が深みにぼやけてしまうくらいの沖合いまでやってくると、彼は身体の力を抜いた。遥か岸辺へ波の寄せ返すのに合わせ、水中をたゆたう。ここでは一定の座標に留まることは難しい。遥か昔、遠い祖先にあたる種は乾燥と変化の嵐の荒れ狂う地上へ出るにあたり、その身に海を抱えていったという。現在の海と異なるとて、原始の海はどの人の内にもある。宇宙で生まれ既に変異した種族においても、体液の組成はさほど変わらない。ジタバは瞼を閉じた。淡い光と影が互いを融かす海中の明度は心地よく、彼方から響き満ちる何らかの振動も夢現の境を曖昧にした。今や五感と、名付けられない感覚のすべてが海を感じている。父の語ったおとぎ話のような海、水は限りなく鰓を通り抜けてゆき、アマゴア人である自分も、ここで息づいている生命のひとつになる。

 パンタ・ジタバは地球の大いなる母の腕に揺られながら、ふと妻のことを思った。この世のどの色よりも美しいミント・グリーン。家へ帰ったら、子供を持つことを彼女に提案してみようと考えている……