月夜の番人は、昼夜の境に立っている。月夜の番人は、我々のような罪人が、日を跨ぐのを許さない。月夜の番人が、月を背にして伸ばす影、それを我らは越えられぬ。我らみなみな踏み込めば、我らみなみな落つるまで。
夜明けの隙間。
ろくでなしは夜明けの隙間に落ちることがある。この街ではじめに聞いた噂話で、警句だった。俺はうつろになったホテルの一室で煙草を吸おうとし、一番よく知っているろくでなしを思い出してやめた。握りつぶした紙箱をとりまく淡い未明の大気に、窓を隔てた明けない夜を見る。
夜明けの隙間の人間と会っていくことにする。どこぞで聞いた話によると、このろくでなしのための薄明で一人、誰かが暁を知っているからだ。廊下に出ると、窓のない場所にわだかまる夜に怯える自分に気づく。嫌な気分だ、まるで五歳の頃の目で世界を見るようで。
頭の膨れた男と会う。なぜ、頭が膨れているんですか。男は答えない、口では答えない、代わりに喉元を指さして、ようやっと俺の胸に結論がすとんと落ちる。明るい真昼のどこかの街で、彼のお喋りはきっと法に触れたんだろう。ああ、喋れないから……
気さくな女に会う。きたばっかりなのよ、とこっからうごけないのよ、が混ざって聞こえる、女は腰かけた旧型のテレビの上で笑い、厚いガラスの曲面で同じ女が泣いた。道を聞けば女は右を指し、画面の女は左を指す。どちらを信じたらいいか分からなかった俺は、どちらでもないほうへ進む。
太った男に会う。その程度たるや尋常でなく、もとは小さな本屋ででもあったろう店舗の全体を有機的な塊が覆い尽くし、もはやこいつが部屋そのもののようだ。「随分太りましたね。」「食ったから。」きまり悪げに言う男がどこかにある尻をもぞつかせると、灰になった本が肉の下で潰れた。
やたら溌剌とした女に会う。コインランドリーの錆だらけの機械はなぜかまだどれも動いていて、赤茶けた箱へ女が次々にぼろ布のかたまりを放り込んでいる。洗濯しなきゃね、うちは家族が増えたから……と軽快に歩む彼女についぞぼろ布の正体を聞けないまま、俺は自動ドアの残骸を抜ける。
毛布をかぶった老人に会う。寒い、寒いと言いながら顔はよく熟れた苺みたいに赤黒く、汗が絶え間なく皺を伝って流れ落ちている。暑いんでしょう、それは要りませんでしょう、と声をかければ頑なに我が身を抱き込む。「寒い、寒いのだ、わしは寒くなければならんのだ…」なるほどと思う。
夜明けの隙間に落ちた憐れっぽい連中と会うにつれ、俺は次第に憂鬱になった。俺は奴らを笑える側にいない、俺もこっち側の人間だからだ。街は果てもなく続き、東の土中に暁がまどろんでいる。目覚めることのできない景色、点らないネオンサインの表面には、土埃がよく目立つ。
のびている女に会った。床一面にべったり広がって、骨もはらわたも服がわりのラグの下で残らず平たくなっている。毛皮の絨毯みたいに残った頭をこちらに向けて、動けなかったのよ、怖くて。とだけ言う。割れた窓を見る。折れた椅子の脚、砕けたマグカップ、片方だけの小さな靴。
痩せこけた男に会った。辛気臭い顔にお似合いの、辛気臭い香りが車内に充満していた。彼は煙草をくゆらして、そういうことでね、と呟いた。支離滅裂な会話未満の言葉が交わされた後だったので、俺はつい真剣になって身を乗り出した。彼も身を乗り出して、助手席のドアが開けられた。男は俺が降りる様子をずっと見ていた。そして最後にはもの言いたげなその視線を、吐いた煙が遮った。
ベンチの上に首が転がっている。疲れたので隣に腰かける。すわんなよ、と聞こえるが無視する。頭はそのうち穏やかになって、特等席でなあ、としみじみ呟く。ペンキは剥げかけで苔むしちゃいるが、なるほどここは特等席で、高いフェンスと鉄条網の名残りが、男の来歴を語っている。
非常階段の鉄柵に、男が引っ掛かっている。彼は逆さ吊りに順応し、むしろ青い顔をして悲しげに唄う。さよなら、僕の夢。さよなら、僕の星。さよなら、さよなら……じきに焼き尽くされる時制に固定された夜空との組み合わせが、感傷的すぎて俺にはきつい。すごすご薄暗い路地裏に戻る。
眠る女を見る。こんな階段に腰かけて寝入っているのも不思議だが、明けを前にした夢は女を微笑ませ、過去の名残は幸福なのだろう。ひとり切なげな空想に浸っていると、女の手のひらに目玉をふたつ見つける。俺は肝を冷やしてすぐ逃げ出した。女はたぶん、ずっと起きている。
男が影のようについてくる。腹に据えかねて突然に振り返ると、やたらと存在の薄い男が、青黒い顔に笑みを浮かべて佇んでいる。裏打ちする感情を靄の向こうに押しやるような笑みだった。彼はいかにも親切な口ぶりで、助言をひとつもたらした。他人事になってきたでしょう。みんなそうですよ。
干からびた女が枝からぶら下がっている。俺は目をそらしたくなったが、女が話しかけてきたので礼儀としてやめておいた。彼女は始終楽しげで、立ち枯れの木肌をしきりに撫でた。いとおしげな指の運びは多分、彼女自身のためだろう。あるいは彼女の記憶の中にしか居ない誰かの……
ノートを持った男が佇んでいる。丘は静かで、枯れ木のひとつきりの影が斜めに垂れている。詩人というのは、嘘つきか実際家かの、そのどちらかなんですよ。彼は語り、空を掴み、ノートはいつまでも白紙だった。
踊る女の肖像が、ホールの中心に照らし出されている。客席に誰も居ないのが不思議なくらい、彼女の踊りは上手かった。光の下で翻る褪せた赤。終わらぬ演舞に足りない要素を、俺は知らないままホールを後にする。
俺はあきれ返った。この卑しげな小男ときたら、のべつまくなし愚痴を言って言い尽くし、誰も彼もを中傷し、そうやってどこまでもついてきやがろうとする。無視を決め込んで歩いていたが、うんざりして振り向きざまに拳を上げる。そこには誰も居ない。胸のむかつくような滲みだけがある。
後悔は潮のように満ち干する。ある瞬間にはちっぽけな俺の良心を溺れさせてしまうが、次の瞬間にはどうでもよくなっている。わかりかけてきたことだが、ここにはそういうろくでなししか流されてこない。
カフェテリアの残骸で乾いている女を見る。隣に座る勇気はないから、そのカウンターを盗み見る位置に陣取って、女の手がどこへ動くか確かめる。干物じみた手首の節は、空席のグラスへぶつかって鳴る。女の頭が垂れる。途切れ途切れのポップス。
郵便受けの前に男が生えている。脚の先に足がない。彼はただそこで生えていて、二つの柱の影はひとつにまとまって立つ。俺が見ているほんの数分の間も、郵便受けの中には手紙を待つ男の溜息だけが重なっていく。薄明に浮かぶ手も、ただ便りが来ないことを確かめている。何度でも。
女がひとり、鏡の前でうっとりと己の姿に魅入っている。曇り煤けたその表面に映るのはぼやけたシルエットだけだのに、彼女は時折くるりと回り、首飾りに手を触れる。宝石か何か入っているはずの所には、ただ空白が嵌っている。
ビルの一室で休憩していると、年若い、作業着姿の男が走りこんできた。用箋挟がぱたりと落ちる。あくせくそれを拾いながら、大丈夫ですか、と急いた様子で尋ねてくる。内容もよく考えずに大丈夫だと答えると、彼は胸ポケットから出した不格好な機械のつまみをひねり、書類に何か書き込んで、ああ、良かったと呟いた。そしてばたばたと慌ただしく、階段を上がっていく。
演説家がお立ち台の上で腕を振り回す。堂々としすぎた腹が、ボタンを弾けさせそうにして揺れる。叫ぶ言葉は喉のあたりで潰れてしまうのか、聞こえてくるのはうめき声だけだった。彼は声を張り上げる。少しも出てこようとしない言葉は、やはり膨れた腹の中へ溜まる。
顔の溶けた、男でも女でもない人間が汚い川の面を流れていく。橋の上から呼びかけても、何も言わずに流されていく。なるほど、そういうことかと思う。というわけで流れ着く川下はどこにもなく、しばらく経つとまた同じ人間が流されてくる。
どこぞの廊下、天井は崩れて久しい。踏み割るガラスの欠片に、俺自身が映る。砂利道の足音と、無数に分かたれた未明の紺青、静けさがふやかしたコートのくたびれ具合に、だらしのなさを咎める声を聞く。それが思い出だと知っているので、廊下を行くのが怖い。俺は知っていた。
またしても、男が影のようについてくる。影は墓石に腰を下ろし、未明の彩度で亡霊を装った。亡霊は囁きかける。
「あなたは思い出しかけているのですよ、そのうち時計の針が進んで、あなたは暁を知るでしょう。私は見ましたよ、窓べりに差し込んでくる光を……そうして一歩踏み出しかけて、陽の温めたもの特有の埃っぽい空気の香りを吸い込んで、それで曇りなく悟ったのです。」
男がいる。自分自身を愛するように、戻れぬ日々に親しんだ男だ。彼は時がもたらした恩赦を拒み、差し出された黄金に背を向けて、無意味な内省へ帰っていった。薄明の一歩前。俺にも家へ帰るよう勧める。それからでも遅くはないと。
見知った通りを歩く。靴底が擦り切れるほど慣れた道は、目を瞑ってでも過たず進めるはずだ。アパートの入り口で、気休めの補修を受けた扉が住人を招く。案の定やかましく軋み、人の出入りを知らせる。予感は息を潜めている。一歩踏むごとに近づいてくる。
部屋には俺が居た。部屋には見捨てた女の生活があった。部屋には女の姿だけがなかった。俺は立ち尽くしていた。街灯は窓の格子を檻にする。囚人の後悔が革靴のかかとに触れたとき、俺は夜明けの隙間に落ちた。
明日へ渡る権利を手放して、俺は夜明けの隙間に落ちた。