海から帰ってきたものがいると聞いて浜へ急ぐ。浜へ急いでみればそいつは町へ行ったという。町へ引き返せば街へ行ったという。そこで私はぼろ家に戻り、おんぼろ車を起こして街へ急ぐ。西日が頬に熱く口づけ、轢いた石が未舗装の道にポンと弾け飛び、私はそいつに会いたくてたまらない。

 街まではぞんざいに引かれた国道を何も考えず進めばよかったので、アクセルを踏んでぼんやりしていると、フロントガラスへ森や丘でなく畑や民家が増えてきた。街と野の境がどこにあるかも気づかぬうちに、街が車を取り囲み、道はなだらかな石になる。人の営みに満ちた場所を都市という。

 都市は人を抱いて成り、余所者を余所者にせず盲目的な愛で受け入れる。あらゆる悪徳・あらゆる罪過、あらゆる病苦を携えた人や人でなしを腕にかくまって平然としている。むろん私は悪人でも罪人でも病人でもないから(悪と罪とに病を並べるのは不謹慎きわまりない愚かな並列である)、なんの但し書きもなく道行く人々に混じる。昼時の街路を歩き、群衆を海に喩うのは当然のように思った。

 私が研究所に着いたとき、既に午後は夕べを越して蛹化しかける頃合いだった。太陽はまだ西のどこかのオフィスに引っ掛かっているようで(世の習いとしてそういう施設はだいたい西にあった)、建物にそうあるべき直線の集合体が、褪せゆく今日を背景に眠りにつこうとしている……否、そうではなく、彼らはこれから目覚めるところだった。

 海からきた人なら散歩に出ましたよ。まさか水槽の中で我々の実験を待っているとでも思ったんですか? ばかばかしい……無論観察はしますがね……と白衣の男に笑われる。私は特段不愉快も覚えず、礼を言って外に出る。部屋の片隅のかごの中では、げっ歯類が何やらごそごそやっていた。

 それで街へ出てみると、日は足早に西の昼からも退出し、あたりは暗くなっている。と言いたいところだがむしろ、はっきりと夜になってしまえばここは暗いどころか燦然と輝く灯火に彩られ、人工照明の祝福を受けた文明が晴れ晴れと羽を広げている。私は雨の匂いを嗅いで、手近な店へ潜り込む。

 私は食事にミートソース・スパゲティを頼んだ。肉団子入りのやつで、この店に来る客はみんなそれを頼むのだった……なにせメニューがそれしかない。あとは酒ばかりで、腹を満たせば今度は幸福な喧騒が中耳に満ちる。草を食って育った獣の成れの果てを噛みながら、海から来た人もこれを食べたろうかと夢想する。多分、おそらく、食わなかったろう。ジュークボックスは時代遅れのナンバーを歌う。

 出る頃には雨は止んでいた。また研究所に行くと、目当ての御仁はまだ帰らないという。酔い醒ましにぶらつけば、また酒が欲しくなる。ちょうどまた雨が降る、今夜の空模様はぐずぐず泣いていて少しばかり迷惑だ。またどこぞに入ると、見知らぬ顔と飲み交わす。くたびれた顔の他人はやがてこの場だけの友となる。これこそが人生、人生に乾杯。

 人生に乾杯、などと景気のいい嘘を耳と耳のあいだに張りわたしながらも、心のほうは冷めていた。勘定を済ませ、ばかにしらけた気分で歩く街はもうそろどんちゃん騒ぎをやめて、つつしみ深い別の顔を見せはじめていた。ビル群は大聖堂の柱もかくやの厳粛さで並び、夜霧をどこかへ誘っていく。

 橋にさしかかると、預言者の道の如くあたりが開けて涼しくなった。中ほどに人がいるのを認めたが、私は直感した、これが尋ね人、はるけき母なる海の懐より帰り来たりし人である。彼の人は橋桁を背に佇み、向かいに流れていく川を、微動だにせず眺めていた。労働と生活は薄闇で夜を満たす。

 やあ、あなたが海から来た人ですね。などと礼儀を欠いた挨拶を、その人は朗らかに受け取った。乏しい光量の下、男にも女にも見えた。魚には環境に応じて雄になったり雌になったりするものがあるというし、当然の事かもしれない。そうですよ、と言葉が返る。私は海から戻ってきたのです。

「海で暮らすのは簡単なことではありませんでしたが、楽ではありました」その人は私の聞きたい事柄を、既に承知しているらしかった。「とても美しいところです。その青に果てはなく、視界にはいつでも生きているものの姿が見えます。底のほうではマリン・スノウがやむことなく舞い踊ります」

「たいそう良い眺めでしょう」と私は空想を夜霧に撒いた。
すると海から来た人は少しなにかを迷うようなそぶりをした、無邪気にはしゃいでいる相手の勘違いを指摘する二秒前のやり方で。
「海の中では、死んでいるという状態がないような気がします。死骸も命を養うためにあり、常に何かがそれを糧として生きているんです」
青じろい両手がいやに目につく。

「すばらしいところですね」
「ええ、すばらしいところでした」
「ここはどうですか」
「ここは……ここはひどいところです」
苦いところのない楽しげな声色が、軽やかに混じる。
「じゃあなぜ、帰ってきたりしたんですか?」
「ここがひどいところだからですよ」
海から来た人はまた笑う。

 その人が笑うと、あたりが潮の香りに満ち満ちて、湿度の高い雨後の大気がたちまちのうちに塩からい生命のスープに変わってしまう。もちろんそんなものは全て陳腐な錯覚なのだが、濡れた地上の暗がりにあって、海から来た人の瞳は紺青に深い。込み上げてきた郷愁が肺を破り喉をつく。

「ここはひどいところだ、まったく。実をいうと、私は海へ行きたいんです。二度と戻らないつもりですが、戻ってくるならあなたのように、海の一部を持ち帰りたい」
いきなりべらべら喋くりだした私の胸には、依然かたちのない衝動がつかえていて、秒を追うごとに苦しくなった。

 海の人は笑う。
「ここはろくでもないところですが、悪いところじゃありません。海はすばらしいところですが、良いところじゃありませんよ。あなたはご存知でしょう、ここはすばらしくはありませんが、あなたの家だ」

いまや私の胸は張り裂けんばかりだった。郷愁は衝動に転じ、膨れ上がって憧憬となった。私はすがりつこうとでもするように両手をさし上げ、中空にさまよわせた。手のひらを湿った空気が撫でた。
「そんなことを言わないでくれ、俺も海へ行きたいんだ。海を持ち帰りたいんだ。確かにここは家ではある、でも俺の故郷がどこにあるかだって知っている、俺は故郷へ戻ってみたい」

 海の人はなおも笑う。
「およしなさい、あなたは溺れてしまうだけだから」
「俺は海へ行って、海を持ち帰りたいんだ! もうとっくに干からびかけなのに」と、恥も礼儀もかなぐり捨てて懇願する。私は必死だったのだ。ずっとどこかへ帰りたかった、家は家でしかなく、陸のどこにも故郷と呼べる場所はない。自分がどこで生まれたか知らないからだ。私は顔を歪め、海はなおも笑った。

「あなたは海をお持ちですよ。陸の生き物はみんな海をたずさえて乾いた地面に上がってきたといいますから。そしてあなたは満足している。いいえ、いくら否定しようとも、あなたはそれに満足だ。私はそうではありませんでしたから、海へ行って、海に浸って、溺れずにいられたのです。

「海が恋しいのなら人波をご覧なさい。それぞれが持ち寄った海がさざめき、ぶつかり、とけあって、あれはまさに波だから。雨をご覧なさい。海から空へ昇った水が、地面に注いでまた海へと帰っていき海をつくる同じ水ですから。あなた自身をご覧なさい。あなたを巡り生かす水、瞳を潤す水を。

「そこにあなたを渇きから覚ますのに十分なだけの海があります。必要なだけおとりなさい、あなたはあなたでいたいようだから、風と熱とを大事になさい。それがあなたを生かすのだから……ああ、もう夜も更けきった」

 海から戻った人が視線を外して言葉を切ると、それまでの魔法は褪せてただ夜の、雨の乾かぬ街が残る。それではそろそろ戻ります、さようなら。彼方から帰り来た人は、此方の住みかへ帰り行く。

 私はその背中が半分の大きさになるまで見送って、フイと背を向けて歩きだした。振り返らずに煉瓦の上へ、一足一足積み重ねていくと、短い橋はすぐに尽きた。私は顔を上げた。

 大通りの街灯は眠らない。常夜灯の光は濡れたアスファルトの細かな凹凸の上に散り、真っ黒な路面は海へ月光が注ぐがごとく、白く静けく輝いている。二階調の明喩の海、それはまぎれもなく確かに、私のための楽園だった。

私は乗ってきた車を目指し、どこまでも道を下っていった。