目覚めれば異世界だった。僕はたしかよちよち歩きで車道に飛び出した子供をかばい、非常に気の毒なトラックのドライバーに前方不注意の罪を負わせたばかりだった。撥ね飛ばされた僕の身体は大暴れする物理エンジンの加護を受けたようによく飛んで、植え込みに突き刺さった。骨の砕ける音を聞いたような気がして、エンドロールの一曲にしてはあまりにも野太い叫び声で記憶が終わっている。
異世界というのは不思議なもので、目覚めた最初の景色から、あるいは耳に入る最初の振動、吸い込んだ最初の呼気、痛む背中に感じる大地の硬さ、その他もろもろからわが身を翻弄する信じがたい運命が一瞬にして理解される、ここが自分の生まれ育った馴染みぶかい地球・太陽系第三惑星・天の川銀河・おとめ座銀河団・無限の可能性を秘めたスープ、母なる海の渦の中で炭素を軸とした生命が育まれ、自己複製する小さな工場の子孫がやがて火と正義と戦争を歩行の義務から自由になった前足で握りしめ、重い頭部をしっかと据えてすっきり整頓された喉元から、言葉を口ずさみ世界を記述するこの稀有な試行の一パターン……つまり自分が生きていた現実ではないことを、はっきりと認識するのだ。
まだ眠たがっている僕の目に飛び込んできたものをあまり気取らずに説明するならばこうだ。〝世界一綺麗な海 〟の底の砂地を照らす水面の網目模様、あれとそっくりな(とくに明度がだ)線条がいくつも乱れ絡み合いかがやきながら、空一面を覆い尽くしている。ひとつきりではなく色相の違う網が無数に重なりあっていて、それぞれの層には色あいの差以外の個性もあるらしく、鼓動の速度で明滅したり、輪郭を砂粒状に崩したり、世界をひと巻きする大蛇の腹よろしく緩慢に動いたりしていた。
正直に言うとこの段階でかなり面食らった。ここがいかにもな妖精舞い踊る森の中なら耳の尖った美人姉妹でも探しに行きたいところだが、どう考えてもアート趣味に走りすぎたSF映画の景色を見ると、せっかく開いた目を閉じて逃避の暗闇に膝を抱えていたくなる。そうしなかったのは他の違和感、より差し迫った危機を予期させる違和感が不安を呼び起こしたからだ。まず空気が良くなかった。軽すぎる。息を吸っているという感じがない、ああ今ぼく息を吐いてる!という満足感もない。レビューするなら星二つのこの味気ない気体には何が混ざっているやら検討もつかなかった。しかし幸いにして酸素は……少なくともホモ・サピエンスの細胞を生かしておくに足る組成はしているようだった、今のところは。こうして抱いた一抹の不安へさらにもうひとつまみスパイスを振ったのは横たわる地面の硬さで、硬さというより柔らかいと言ったほうが百倍正しいくらいの、妙な感触で僕の体を受け止めているのだった。これは遠い昔──といってもほんの十年くらい前──に遊びに行っていた児童館の、好き放題荒くれていた小学生男児のやわい頭をやさしく守ってくれたプレイマットの感触に似ている。そうだ、地面というよりはマット、背中をチリチリさせる小石のような凹凸もなくなめらかで、平衡感覚を信じるならばまったく傾きもなく平らだった。手触りもどこかウレタン……とかそれに類するものへの近しさばかりをもたらしている。以上、五感で感じることおしまい。耳と鼻と舌は大した情報も入らないのでなまけていた。割愛しても良さそうな項目としては痛覚の沈黙と血の味わいの欠如があるが、仮にあの物理的衝撃に致命傷を負って息も絶え絶えならこんな落ち着き払って空の色なんか見ていられないだろうし、頭の中は無意味な絶叫とあわれっぽい呻き声、あと陳腐な罵倒語で満ち満ちていただろうからやっぱり詳細なコメントは控えさせてもらう。
さて、このあたりで僕はもう起床するしかない。果報は期待できそうにない、それよりもこのわけのわからない異世界で新種の菌類の苗床になるリスクのほうがはるかに高そうで、はるかに確かそうに思われた。僕は意を決して起き上がり、絶望が肩まで這いのぼってこないうちに膝を立て、二本の足をふんばって立ち上がった。僕、大地に立つ。ここで少し時間を頂いて容姿について語らせてもらうと、僕の身丈はリンゴ百七十個ぶん(中くらいのやつ)、肉付きはいまいちかつ貧相でなしという理想的体格、シンプルなパーカー・Tシャツ・ジーンズ・スニーカー・長さもそこそこの黒髪・ピアスなし・タトゥーなし・髭なし・手術痕その他もろもろの身体的特徴なし・肌の色:肌色、といった平々凡々アベレージ男だ。肌の色について言及するのは人種差別の見地から控えるが、少なくとも僕は日本の高校に通う学生であり、部活は漫画同好会であることを加えておけば、だいたいの人物像は……
僕はあっと叫んだ。まったく突然に。
それは元々具合のよくない僕の頭がいよいよ取り返しのつかないレベルまでおかしくなったからではなくて、四、五メートル離れた地面の上に動くものを見つけたからだ。奇妙な形をしていた。奇妙な形、と聞いた人間が想像するのは大きく分けてだいたい二通りの姿に収束する、つまり不定形と定形で、空と同じマンダリン色の大地を滑るようにこちらへ向かってくる物体(生物かもしれない)は、どちらかというとあとのほうに含まれるらしかった。らしかったというのはそれがポメラニアンほどの大きさしかないことと、立位の顔-足元の距離で見てみれば輪郭が思ったよりはっきりしないことなどから導かれた文句で、全体の形としてはおおむねアダムスキー型の宇宙船とコウイカを足して二で割ったという風情だった。もう少し仔細にわたって観察してみると、地表から四半メートル浮かんだそれは長径三〇センチ×短径二〇センチ、こちらに向いている側を前とするなら、前から流線型を膨らんだ球体をきっちり真ん中から切り分けて、周縁に波うつひれをとりつけたような感じ。表面の質感は樹脂と牛革のあいのこで、模様の一切ない淡い赤色は半光沢の鈍いつやを纏ってなかなか綺麗だった。膨らんだり縮んだりは呼吸だろうか。触ればはっきりする事項も多そうだが、大胆さと無謀の境が怪しい。見知らぬ土地で見知らぬ物に直接的な接触を図るのは思慮の足りない人間のすることで、パニックホラーのジャンルで観客を苛立たせるのには大いに役立つ装置であっても、ノンフィクションでやるには不適切もいいところ、自分の命をかけるにはあまりに益のなさすぎる愚行だった。
「おい!」
駄目で元々、呼びかけてみる。念のため一歩あとずさり、距離をとって。コミュニケーションが可能ならこれほど助かることはないし、駄目なら駄目で今後の方針を決める助けになる。五秒経過。反応なし。十秒経過。反応なし。六十秒と念のためもう十秒待ってやっぱりか、でもそう悪くもないさ、などと諦めかけたその時、そいつは動きをみせた。便宜上の前から後ろにむかって一本軸を通し、右側をポンと叩いてやったかのように、その場で景気よく回転している。それからぴたりともとの角度(つまり水平)に復帰すると、徐に僕の目の高さまで浮上した。まさかこのまま捕食器を持ち出して折角拾った命を散らされてしまうのだろうか。どうかそうなりませんように。いたずらに延期された死を再び眼前にちらつかされても、僕はまだ心の準備が………
ヴヴツツェネガジャダマポウェチヤラツ。
何だこれ。脳裏に浮かぶ文字列はまぶたの裏に焼き付いて離れない。ヴヴ……?ヴヴツツェネガジャダマポウェチヤラツ。この幻素生物の名前。幻素なんだって?深く考えるまでもなく、疑問符が渦まくにつれそら恐ろしくなった。今の僕はいうなれば、知らないはずの遠い未来を思い出している状態だ。既知の新情報をさらうとヴヴツツェネガジャダマポウェチヤラツはこの世界唯一の生命体である幻素生物の一人で、存在するはずのない生き物を見つけて文字通り飛んできたというわけだ。これらは僕の頭に僕の目の前にいるこいつ=ヴヴツツェネガジャダマポウェチヤラツ、という形でもたらされている。だからさっきの説明的一文の翻訳強度を下げてやるとこうなる。
目の前のこいつ=ヴヴツツェネガジャダマポウェチヤラツ 幻素生物。
これじゃあまりに味気ない。幻素生物とかいう意味不明なラベルを貼っているとて相手が生き物ならこの奇妙な情報交換も十分コミュニケーションと呼ぶに足る要件は満たしている。僕は電光掲示板の表示のように並ぶ文字列を追うだけじゃなく、できれば血の通った、というか僕自身の親しんだ様式で会話がしたかった。だから必要ないと分かっても伝達すべき事柄は四角いモノローグ箱に収めず口に出して喋りたいし、この何でできているかも定かじゃない奇妙なヴヴツツェネガジャダマポウェチヤラツにも想像で声をあてることにした。翻訳機能は強度四(それなりに意訳)。
「君の名前って僕の基準だと明らかに長すぎる。ラツでいい?」
「いいよ」
僕はちょっとほっとした。これから先ずっとヴヴなんちゃらを繰り返し言わなきゃいけないかと思うと僕の思念も念仏の様相、もともと撥ねられて死に臨んだ身としては気が滅入って仕方ない事態になったろうから、礼儀を乱さず彼を(便宜上彼とする)ラツと呼べるのは本当にありがたいことだった。
「君さ、何のために僕と喋ってるんだい。食べるため?」
「ありえない」
ありえない、は電光掲示板の上では「ある」の否定だった。彼らがアングッド的省略の中で生きているのだとしたらそれは悲しむべきことだ。われわれのような言語を軸として成る生命体においては、表現の豊かさこそがより精密な状況把握を可能にするのであって、云々。僕は空しい論をこねくりまわすのが面倒になった。だいたい繁栄という話なら彼らもそれなりの成功を収めているようだし──これは僕がこの場所の生態系に思いを馳せた瞬間にもたらされた知識だ、幻素生物におけるヒトの地位は彼らオバリエンセ・ペッコカニムのもの──つまり僕のこのくだらない考えは余計なお世話でしかない。物理法則すら異にしそうな正真正銘の異世界に僕程度のものが携えるちっぽけな現実の常識を当てはめることこそナンセンス、狂人の物語を秩序だてて整理整頓しようとすれば発狂の憂き目に遭うわけで、要するに自分の世界でしか通用しない定規を持ち出してあれこれ批評してみせるのはまさに礼を失した行いだってことだ。控えよう。
「食べるためじゃない。君が外殻にいてくれてよかった。君がいないと飛べない」
「なんだそれ」
なかなかロマンチックな文言じゃないか。もちろん訳者の解釈が影響していない訳じゃないけど、それでもこのA=B的な無味乾燥直接入力言語にあって、この「必要=僕がいる=飛ぶ」というのはなかなかに夢見がちな響きがあった。
「外殻ってなんだい?この網のことかな」僕は頭上を指差した。「まてよ、それじゃだめだ、僕はいま網の上にいるわけじゃない……じゃあここが外殻ってこと?君は地下に行きたいのか……いや、地下なら飛ばなくていい……中空になってるとか?」
ラツはひだを小さくはためかせながら、例の軸を中心にして九十度傾いた。彼の言わんとすること、僕の疑問に対する答えとその補足諸々が流れ込んでくる、というか既に知っている知識として一気に滲み出てくる。これを地の文で悶々と読み上げるのは癪なので、全部ラツの発言に変える。以下の通り。
「外殻というのはここだ。地面が空を取り巻いている。地面を掘っても何もない、マンダリン・オレンジの柔らかい虚無が無限に続いている。君のいう外はない。宇宙とはなんだ?私の言うことは真実だ」
質量のある虚無に包まれた空間?疑念は隠そうとした瞬間に露呈し否定され真実だと念を押されても、目をやった地平線はまっすぐだし背景は灰色の空間で、僕にはこれが球体の内面に立って見た光景とはちょっと納得できかねた。彼は異世界人の無関心で僕の納得事情を完全に無視した。
「私は生まれた場所に帰りたい。追放者なんだ。私は異端で、良くない考えを起こした。地面から三〇メレクィトバー──だめだ、これは翻訳ミス。約四メートル──以上浮くことができない。故郷は遠い」
僕の目の裏側にラツの体色と同じ淡い赤が広がる。母なる海を彩る死骸のコーラル・レッド。それから灰色の空間、頭上に張り巡らされた複雑な網目模様──僕はこれをウェブと呼ぶことにした(なかなかにSFっぽい、ハッピーエンドの予感に胸が高鳴る)──その一番手前の鮮やかな黄色、その後ろの目の覚めるような緑がかった青、その後ろの強烈なピンク、色とりどりの層を九つ抜けた先に美しい珊瑚色が広がった。へえ、綺麗じゃないか。でもはるかな旅路だった、ここからだと線にしか見えないそれらの側を、稲妻の速度ですり抜けていく途中に見えたのは大小様々な、大小どころか全要素でバリエーション豊かな構造物だった。板とか箱とか球体、平面図形……それらが全て豆粒以下の粒子になって、砂絵よろしくただの色に変わってしまうんだからとてつもない距離だ。そんな遠距離飛行を初心者の僕にさせようってのか!練習を必要とするなら地獄になりそうだ。確認したい、難易度を。
「僕なら飛べるわけ?どうやって?」
「重力はない。接地の認識が物体へ君を貼り付ける」
「ていうと?」
「剥がせばいい」
こういう時脳内直接入力型コミュニケーションは楽だ。そのノウハウというかハウをノウしてた瞬間に僕の身体は浮き上がり、灰色の空に吸い込まれていく。私を掴め!ラツの叫びに慌てて手を伸ばす。よく考えたら別に行きっきりになるアリス穴ってわけでもないし、すぐ地面に足の裏を貼り付けようと試みたらいいだけだった。でも僕はドラマチックなシーンづくりに熱中し、ひだを心なしか激しめにはためかすイカUFOをむんずと掴んでそのまま空へ落ちていった。思い切り飛び込んだトランポリンから跳ね上がった数秒が永遠に引き伸ばされている感じ。ウェブの黄色の解像度が増していくにつれ、地平線は妙な具合に丸まる気がした。とはいえ往々にして気分と実際には隔たりがあるもので、見たままを言えば適当に引いた線分を一対一で分けた垂直な航路から見る景色は一面の平たさ、ぐるり見渡しても全く変わり映えがない。視野は否応なしに広がっていく、落とさないようしっかり抱いたラツはあえての沈黙を貫いている。この先やらなきゃいけないことはなんとなく分かるよ、黄色いどこかにできれば足、それでなかったら手でもお尻でもいいけど身体のどこかしらを貼り付けなければ。覚醒の第一瞬と比較してあまりに楽観的な思考でいたが、順応適応応用力、どうせ明確に現実と断じられるのは事故死(よくて重傷)などというありがたくもない展開なわけで、それならいっそこの無茶苦茶な異世界の異の一文字をなんとか水なしで飲み下し、消化して世界にするほうがいい、ずっといい。
僕は疑問符を軽率に投げ捨てて、マンダリン・オレンジの大地におさらばした。