粒子というにはやや平たく、また細長すぎる黄色が背景の灰色に冴えざえと輝いている。十分アニメなら五本は見終わる永遠に等しい旅路を経て(つまり五十分から体感補正のぶんを考慮して実質十五分程度)アクリル板とペロペロキャンディの隠し子みたいな桟橋へ、僕はようやっと降り立つ、もとい貼り立つことができた。あたりを満たすのは憂鬱をうきうきと吹き飛ばし軽やかに舞い上がる黄色、陽属性の黄色でできた硝子板が互いに相似な無数の箱を形づくり、それらが重複・同化・拡張を経てばかでかい集塊を、ひいては無限に等しい有限のスケールで広がるウェブを形成している。個々の塊は回廊や橋、天地の区別なく張り出したバルコニーあるいは海賊船から捕虜をサメの餌にする時に使う飛び込み台に彩られ、放置していたジャムの瓶にはびこるカビに少しだけ似ていた。
「誰もいない。ここってもしかして辺境すぎて人いないの?」
「いる。それにここは辺境じゃない」
僕は目をこらした。確かに人──もちろんホモ・サピエンスのことじゃない──は居た、過疎どころかうじゃうじゃしている。ただその体色が僕のラツと違ってこのウェブと同じ鮮やかな黄色であるために、背景と同化してぱっと見の視認性が今ひとつなだけだった。気づいてしまえば逆に目について追い払えない。石垣を這い回る蟻の例で適切に想像していただけることと思う、苔の上に一匹、そのそばにもう一匹、ここにもあそこにもと倍々、二乗三乗に膨れ上がって引きの画の全体が蠢くようになる。ラツ氏の仰る通り辺境どころか都心の賑わいだ。彼らの胴体部は僕の頭に寝そべった珊瑚色のやつよりややふっくらとしているようだ。食生の違い?
「彼らは思想家だから膨れるんだ。そして色は生じた場所に左右される」
「へえ。じゃあラツは……まあそれはいいや、思想家っていうけど彼らも君みたいに僕と話せるの?異世界人の思想ってめちゃくちゃ興味あるよ。辞書の違いは思想をまるきり変えちゃうんだもんな」
彼らと僕らの思想にさしたる相違がないのなら外貌はどうあれ異世界人の異の字は想定よりプチプチのミニマルだってことになる。折角の異文化体験も残念ながら少々期待はずれになるわけで……いやいや何考えてるんだ、娯楽的観点から悲劇に浸りきるには時期尚早もいいところ、僕は何も起こらないうちから無駄な憂いをこねくり回しすぎる。だいたい異世界人の異の字が小さくたってなにも悪いことばかりじゃない、興味は薄れるけど孤独も薄れる。僕の安心を補強するようにラツの無味乾燥な返事が続いた。
「話せる」
僕らの立つ桟橋は一層賑やかな場所からやや離れたところにあった。蟻の巣みたいに思想家の素を観察するには丁度いいけど、彼らの輪に加わるにはもう少し近づく必要があった。僕はよちよち歩きをすっ飛ばして貼りついた地面にズッシリ踏み出した。重力はない割に結構上手に歩けている、微妙な違和感は無視できる程度、不都合といえばこんなに硬質で綺麗な床を踏んでいるのに足音が鳴らないのが寂しいことくらいだ。近場のトンネルはに入る道をたどればほどなく壁(向こうからすると僕らの歩いてる平面こそが壁)に沿って四〇センチほど浮いた黄色いイカUFOが、豆粒サイズでなく目に入る。近くで観察すると膨れている以外にもラツとは違っている、どことなく細部の意匠が異なるようだ。例えばひだの幅が狭いとか、表面の質感がラツよりプラスチック風味だとか。あと、ほとんど収縮がないのも大きな鑑別点だ。もっともこの辺を解析するにはn数が少なすぎ、時期尚早である。
「やあ。ちょっと聞いてもいいかな?」
「どうぞ」
黄色いニューフェイスはいきなり現れた僕という異分子を一瞬のためらいもなく受け入れた。だから僕も挨拶を省略してズバリ直球インタビューを飛ばすことにした。
「君らって今までに僕みたいなの見たことある?」
「ない。お前の頭に流人が乗っている」
やっぱこの人(便宜上この表現)処理が速いな。僕の割と勇気を要した質問は一秒で片した癖に、頭の上の異端児には言葉だけでなくひれのはためき三ウェーブ分と微妙な揺れまで乗せた。けどまあ、囚人!単語の圧にやや面食らう。ラツは追放者だというが、良くない考えとやらはれっきとした犯罪だったわけだ。この世界の思想犯罪が重罪でなければいいけど。僕の白目・黒目はラツのせいでコミカルな配分になった。ラツ、これって僕らの出立直後の汽車を脱線させるような爆弾じゃないだろうな?
「私は意義を申し立てに行くんだ。どうでもいい。話をしてやれ、思想家。彼はそのためにこのウェブに寄った」
「そうそう」僕は揉み手をはじめんばかりに調子よく便乗した。「ラツの暗い過去については後で個人的に聴取するとして、今は君の話に興味があって。思想家って人種にお目にかかったの初めてなんだ」
「話と言われてもな」
そりゃ確かに。僕だって道歩いてて唐突に「あなたの思想に興味があります」なんて言われたら、間違いなく新興宗教信者と認定してさり気なく立ち去るところだ。彼の名前はまた妙ちきでぐったらげなうんざりする長さの文字列だったけど、ここはひとつ便宜を図ってマンマルチン先生とする。我ながら最高のネーミングセンスに背筋がピリピリする。ふむふむ、彼らに聞きたい事柄は多々あれど、考え事を生業とする のご見解を伺う第一歩に相応しいのはシンプルかつ深淵なアレだろう。
「じゃあとっかかり。死とは!」
「仁における実素要素と幻素要素との絆の消滅」
ウッソだろ。ラツ先生助けて、僕まだこの世界にオギャーと吹っ飛ばされて来てから五分も経ってないんだよ。無益な嘘で数字を逆粉飾してみた訳だけど、事実僕の脳内にはまだこの異世界に関する基礎知識がチェダーチーズの様相、要するにスッカスカでとてもじゃないがありがたい思想を咀嚼するに十分とは言えなかった。採食の比喩を引き続き採用するなら「仁」とか「幻素」とかってのは唾液のようなもので、僕の怜悧な頭脳が噛み切った説明をちゃんと胃に滑り落としたりこの時点で消化を始めるのには前提となる知識が不可欠なんだ。絆ってのはロマンチックなワードだが、僕の理解の妨げにしかならない。
「ラツ、助けて」
「仁はこの世界の中心だ。球形をしている。外殻層とほぼ同様の構造体だが、閉じている。我々の本質たる実素はそこに含まれているんだ」
「ハアン」難しいなあ、はもう少し先に取っておく。僕の翻訳も多少こなれてきてはいるものの、ラツの送ってくる知識は単純明快、だから言語化しにくかった。説明を奮ってくれても怪刀乱魔。「そんで?」
「幻素は実体を持たない。蜃気楼のようなものだ。我々は仁内部に存在する実素のうねりから生じた思念であり、それを外部空間を漂う幻素に繋いで生まれる。蜃気楼が思念を核として凝結するようなものだ。この繋がりを絆というんだが、我々はそれを失うと存在しなかったことになる。一度幻素と繋いだ実素のゆらぎは絆を失うと波が静まるようにして消えてしまう」
「へー」
分かったような分からないような微妙なラインをラツは進む。だから分かったような分からないようなエッジの部分を走りながら、ひとまず完全なる理解を宿題にしておこうかと思う。それよりも僕はこの微妙な長さの説明の間に放っといた思想家が居なくなってやしないかとドキドキしたけど、彼はまだそこにいて、その膨れた体をじっと僕の目線の高さに浮かべていた。
「じゃあ質問が悪かったんだ。オーケー、これも僕の故郷では非常に紛糾、侃々諤々の大論議なわけだけど──愛ってなんだと思う?」
「愛」
マンマルチン先生は短いオウム返しの後、完全に静止した。僕がさっきの主題を心配し始めたのと同時に、猛烈な勢いで回転しだした。生きてた。はじめましてのラツがやったような矢状軸回転じゃなく、垂直な軸を中心に回っている。輪郭は益々曖昧になり、辺縁のヒラヒラはお洒落なコマみたいだ。いや、縁日で買ったどこの国の模造品とも知れないハンドスピナー……次の瞬間のテレパシーはそれまでの平坦な態度からすると脳を疑う程興奮して感じられた。
「愛!複雑だ。それを言う時の君は混乱している、殆ど分裂状態にあると言ってもいい。何故だ?君の思考は他のいかなる概念に対しても暫定的な着地点を見つけるが、愛だけが茫漠としている。茫漠としていながらも強固な前提として機能しているらしい。理解の範疇にない確固たる概念?揺らがせるなあ!」
僕は赤面した。これじゃ重度のロマンチストだと誤解されても仕方ない。弁解しておくと僕はそこまで愛について過剰な崇高さを求めたりしてないし、つまらない恋にうつつを抜かしたことは幾度かあっても、誰かたった一人を壮絶に愛するなんて経験は一切してない、それに愛がどうとかいう使い古されすぎて腐りかけの広告手法に踊らされるほど愛に餓えてもいなかった。しかしながらどういう風の吹き回しだろう?彼は四六時中その幻素のすべてを思索に注いでいるらしいのに、愛なんて単純な概念を新鮮がっている。しかし言われてみれば僕ら人間(ホモ・サピエンス)が愛というものを全文化圏にまたがる共通言語のように扱っているふしがあるのもおかしな話で、こんな定義が曖昧なものを信じられる僕らは皆一様に夢見がちなのかもしれなかった。僕は自分の考えが筒抜けになっている前提で以上の事を考え、先生がそこそこ納得した様子を感じ取って話題を帰ることにした。
「あのさ、ここってみんな思想家なんだろ」
「そうなるな」幻素生物って全員が全員こうなんだろうか、切り替えが早い。「私は思想家で、あの場所の者も、あそこに見える者も、視界に入るのは皆そうだ。視界に入らない者も」
「なんで?」
「なんでとは」
「ここって仕事してる人とか居ないわけ。えーと、思想家以外の仕事をさ」
「居ない」
「なんで?」
「ここはそういう場所だ」
答えになってない。助けてラツ先生。僕は頭の上のラツを心で突ついた。僕のこの研ぎ澄まされた思念で……ところが!ラツは答えてくれなかった。こんなでたらめな世界へ吹っ飛ばされてきた誠実な友人たる僕に対して、無慈悲な沈黙を貫いている。嘘。彼の答えが沈黙と同じくらい情報量の少ないしょぼくれた解説だっただけだ。
「そういう場所だ」
「君は理解できていないようだな。思想家は黄色く生まれる。そうあるべきものとして。君も色に関するイメージの投影を行うな?我々は仁にある自己に照らしてあるべき色を実素に使う。このコーラル・レッドもそうだ。コーラル・レッドという色は──」
「とにかく思想家は黄色だ」
ラツは無理やりこのだいぶ人種差別スレスレ的表現を強調し、自分の色の意味が僕の脳内で像を結ぶのを妨げた。この直接的なコミュニケーションに上書き機能があるとは知らなかった。ラツは何を隠したいんだ?思想家先生はこの罪人の横暴に恐れをなしたか、あるいはプライバシーの保護には深い配慮があるものか、とにかくそれ以上ラツの色について話そうとはしなかった。僕は仕方なく諦めた。私的な秘密を暴き立てて友情をふいにしたいとは思わない。ラツが居なかったら僕は今でもあのマンダリン・オレンジのウレタンマットに寝そべって我が身の境遇を嘆いている。だからまあよくある選択だけど、彼自身が話したくなるまで待ちたいと思う。それを伝える意味も含めて、僕は別の質問を投げた。
「じゃあ聞くけど、思想家って何の為に何してんの?」
「いいことを聞く。君の世界における思想家がどのような存在でどう他者に貢献しているかは私の知るところではないが、我々は……我々の見聞きするすべてに意味づけをしているのだ。君もこの世界を解釈することで、君自身の精神に生じた混乱を乗り越えているだろう。我々も解釈によって秩序を構築している。共有されることは知っているね。仁は混沌だと考えられている。だがこの世を構成する十一のウェブと外殻とがそうであったら……」意味深な間。「疲れるだろう」
疲れる?ちょっと笑える。何か崇高で高邁な理念に基づいて思想という武器を掲げ秩序の尖兵として混沌の使徒を退けているみたいな超・クールでちょっと・大袈裟なセカイ系の発言が飛び出すと思ってたのに。でも僕は不思議と不満を覚えなかったし、十分に納得した。要は彼らのやっていることってさして意味がなく、だからこそ大事な無駄なのだ。僕も知っている。意味付けのない世界は味気ない。外殻は単調さにおいては地獄と並び立つ絶望的虚無だったけど、あれこれ意味付けしたら楽しかった。ところでさっきの発言といい、三者面談を通じて翻訳強度が格段に上がっている。僕はさらにこなれてきたようだ。
「なるほどね。どうやって考えること考えてんの?」この発言はあんまりだ。「つまり題材選びはどうやってるかってこと……」
「手当たり次第なんでもだ。使い古しの題材からも新しい解釈は生み出せる。君はまた愛について考えたな。愛か。それについて考えよう」
「参考資料が僕だけじゃ愛なんて理解できなくないか。似たようなものがあればいいけど……なんかある?」
「好き嫌いはある」
「好き嫌いねえ……ちょっと、かなり違うんだよな」
「どう違う。君は好きと愛を切り離したな。限りなく近いように感じられるが。その二つの間に何がある。例を思い出してくれ。できるだけ多く」
「例って言ってもなあ」
僕は言葉とは裏腹に、これまでの長くもない人生で触れてきた愛を振り返ってみた。どうでもいいけど本当に恥ずかしい。漫画にアニメに小説に映画に、あと同級生や親といった身の回りの人間たちのありとあらゆる種類の(といっても八割色恋)愛情について思いを馳せていると、なんだか寂しくなってきた。僕は全部から遠いところに来てしまった。僕は戻れるんだろうか?そういえば考えなしにラツの口車……もとい電光掲示板車に飛び乗って旅行をはじめた訳だけど、彼の足となって動いている僕という人間には全くメリットのない行動だった。やばいことに気づいてしまった僕を尻目に、ラツは意識の矢印を出す。それに従うと、なんということだろう、思想家先生が空気入れすぎのビーチボールよろしくパンパンになっていた。
「うわ!どうしちゃったのさ」
「考えすぎだ」
ラツが代わりに答えた直後、思想家先生からも何か飛んでくる。
「考え過ぎは私ではない。君だ。このままでは全員影響を受ける」
促されるまでもなく嫌な予感に頭を掴まれ見回すと、あちこちでプラスチック風味の黄色いイカUFOがほとんどまんまるに膨れあがっていた。このままだと危険だ!愛で思想家が破裂する!ラツは浮きあがりたそうにした。次のウェブを目指すのが賢明らしい、僕も同感だった。心の中で手を振って(これが解釈を必要とする新しい概念じゃありませんように)、両足の裏をレモン色の板から剥がした。
そんなわけで僕とラツは逃げるように空へ発ち、カナリア・イエローの爆弾におさらばした。