糧への感謝祭

 国家が今のような形にまとまりはじめてから、宗教的な催しはもう随分と整頓されてしまったから、聖人の名をはじめとする神聖な固有名詞を剥ぎ取られたが、多くは何らかの事物への感謝祭として残された。真冬のこの日は”糧への感謝祭”とされる祭日で、食物を口にするものは誰でも(つまり貧しきものも富めるものもなべてまんべんなく)それぞれのコミュニティの伝統にのっとって楽しむことになっていた。とはいえ役人の業務は尋常変わりなくあったので、免罪官は朝から夕方まで、糧になるとは言いがたい他人の罪悪感をふんだんに分け与えられることになっていた。だがこの日はさすがの貧民窟の住人とて多少気浮かれするらしく、夫のスープにねこいらずを混ぜているとか未払いの給料をそのままに夜逃げの支度をしているとかいった深刻な罪の告白や、もう生きていても仕方ないなどと悲観してつい酒に逃げてしまう、とかの憂鬱な相談はほとんど聞かれず、空いた日を狙って来た陽気な(そして忙しい)労働者連中の適当な懺悔を適切に赦してやって、治安についてのごく簡素な報告書をしたためるだけで一日が片付いた。この日は授業の約束もなく、午後五時を過ぎる頃には門のところにはもう人っ子ひとり見当たらなかった。寒空の下で配給品のグレーの外套の襟を立て気味にしたZは、首元に隙間風が入り込むのに耐えかね、毛玉のできがちな同色の襟巻きをしっかりと巻き直した。門のところの切れかけの電灯がちかちかし、その不規則な明滅は一本向こう側の通りの喧騒と相まって、何故かまだ職場のそばでぐずぐずしているZの視線を、かろうじて昼の名残をとどめおく西の空まで追いたてようとするのだった。彼はあらかじめ申し渡された合図のように軽く鼻をすすり、空気のばりばりした、もう少しで零下につま先を浸す暮れの帰路へと足を踏み出していった。道すがら、彼は贔屓にしている喫茶店の店先に、この寒いのに即席のカウンターが出ていることに気がついた。白い息を吐く売り子の不恰好な団子鼻は案の定真っ赤になっていたが、ざっくりとした毛糸の帽子とむやみに長い襟巻きと、それとおそらく中にたっぷり着こんでいるであろう厚手の上着をまとったその姿はいかにも暖かそうに膨れていて、顔つきも晴れやかだった。
「やあ牧師さん、感謝祭のケーキだよ」と、彼は皿の上の見本を指差しながら、並んだ紙袋のひとつを持ち上げてみせた。見本は狐の毛皮のような暖色をしたパウンドケーキで、装飾こそないものの、「中にくるみといちじくが入ってる」ということだった。
「ひとつ貰おう」
「どうも。あなたにも感謝を!」
 着膨れの店員から満面の笑みで放たれたのはどうやらお決まりの文句らしかったが、Zは正式な返しを知らなかったので、小銭と袋を引き換えにしながら、ただ会釈するだけで済ませた。袋を手にふたたび家を目指しつつ、彼は前に居た教区での感謝祭について思い巡らせはじめるのだった……あののどかな農村でも、糧への感謝祭にはケーキを用意する。家で一番大きな鍋を使って焼いたそれを家族や友人と分けあい、交換しあうのが習わしだった。そしてお裾分けは村外れの教会に住みこむ免罪官にも届けられ(あの小さな教区には官舎などなく、さまざまな役割を兼務にした役人ふたりでひとつ屋根の下、暮らしていた。もっとも、部屋は別だし相手はひどく無愛想な男だった)、Zは祈りの言葉とともに、彼らの目の前でそれを一口かじってみせたのだった。彼はいつでもどこかしら病んでいた相方の顔色そっくりな官舎の灰色の階段を踏みながら、素朴な人々の暖かな気遣いと優しさとを懐かしく思い返した。Z地区の風習も大差なかろうと紙袋に目をやったが、これは貨幣制度の取り決めに従って彼自身が購入したもので、誰かに分け与えられたものでもなければ、これから分け与える相手も居なかった。
 ともあれお茶請けにぴったりのお菓子を買ってきたので、彼は食後のお茶にでもそれを添えようと計画した。時折外から聞こえるどんちゃん騒ぎの端くれに対し、官舎はいたって静かなもので、一日の残りの時間は普段と何ら変わりなく過ぎた。九時を回る頃にはZは仕事着から寝間着に着替えてしまい、あとは少しばかり体を温めて、ついでに糧に感謝してヽヽヽヽヽヽ寝るだけになっていた。たっぷり一時間はそうやってゆったりとくつろぎ、読みかけの小説の続きを楽しむことができるだろう……と考えていた彼は、椅子に腰を落ち着けて、湯気とともに香りの立つ飲み物を一口すすり、しおりをつまんだ。ところで突然、耳障りなブザーの音に安息を妨げられたのだった。
 戸口にKの姿を認めたとき、Zは玄関先まで携えていった小さな苛立ちをいっぺんに吹きとばされて、人と会うにはくつろぎすぎの格好を恥じるのも忘れ、すっかり面食らって目を丸くしたまま、しばらくそのまま何も言えずにいた。Kはそんな教師の様子に笑い(顔色は普段通りだが、声色には明らかに酒精の分の陽気さが加わっていた)、困惑しきりの相手をひとまず自分ともども部屋の中へと押し込むことに成功した。そして機嫌よく習いたての詩のさわりを諳じてみせ、教室までたどり着いたところで、外套のポケットからひしゃげた包みを取り出した。
「Z、これを君に分けてやろうと思って……ナターリヤが僕のために用意してくれてね、でもうっかりしていてそのへんのやつにのべつまくなしにやっちまったから、結局これっぽっちしか残らなかったが……ほら!」
 Zは、彼の本心をここに述べると、包みから出てきたものにうっすらと嫌悪感を覚えた。それはまさしく彼の買ってきたようなパウンドケーキの切れ端だったが、袋と同じくすっかりひしゃげて、ひとつ角のあたりがつぶれてしまっていた。だが、ケーキを半分に割って差し出してくるKの屈託のない無邪気な笑みは、Zにそれを──無事な方の角だけを含んだ、ひと切れの半分──断らせるには少なからず居心地の悪さをもたらしそうであったし、受け取ってしまえば卵とバターのふんだんに使われていることが見てとれた上、それなりの時間Kの酒盛りに付き合わされたであろう割にはかなりいい香りが漂ってきたため、彼は思いきって糧を味わうことにした。Kはというと、残りの半分を自分の口に押し込み、あまり噛まないうちに飲み下してしまった。
「どうだい?」
 Zは待ってくれ、というジェスチャーをしながら黙々と顎を動かし、しばらくして、驚いたな、とても美味しかった……と率直な感想を述べた。Kは満足げに頷いたが、賛辞以外の何かを待つようなそぶりで、そのままZの顔をじっと見つめていた。視線に気づいたZは慌てて(そして半ば呆れと落胆の入り交じった気持ちで)、君も良かったらどうだ、と品よく皿に乗ったパウンドケーキの切れ端を指して首を傾げてみせた。緑混じりの薄茶の瞳はこれを聞いてもまだ期待する気配を覗かせていたが、それを囲む瞼がにわかにばちぱちと瞬いたかと思うと、満面の笑みに弓なりになった。
「ありがとう」
 と言っても引き続き彼は何かを待つ様子でいた。Zはさっきの場面を思い返し、なるほどこれがこの地区のやり方か、と、机から切れ端を手にとって半分にし、見た目は野良だがよく躾られた犬のようにおとなしくしているKに、割った切れ端を渡してやった。彼が今度はじっくり味わって食べている間、手持ち無沙汰になったZは、くるみといちじくと、それからこの寒いのに外でケーキを売っている喫茶店の店員の話をした。
「どうだろう、味は悪くないと思うんだが……」
「Z、君にも感謝を」
 突然距離を詰めてきたのっぽの男に、Zは驚く暇もなかった。温かく柔らかな感触が、微笑みのかたちのまま情感たっぷりに押し付けられるのを頬に感じ、彼は言葉も出せずにKのいたずらっぽく朗らかな笑みを、あっけにとられて眺めていた。
「ああ、そうか……君の知っている感謝祭じゃ、こうはしないのか。僕たちは糧を分けてもらったら、その人にキスをしてもいいことになってる……」
 きちんと言い終わらないうちに、Kは断りをいれて(ただし返事は待たずに)カップを持ち上げて中身を飲んだ。どうやら喉が乾いているようだった。Zは咎めだてもせずその横顔を眺め、さっき返しそびれた接吻を今してやるべきかをただぼんやりと考えたが、もう時間が経ちすぎていて今さらだし、妙な意味が乗りかねないのでやめにした。そうして、ところでZ、と勧められてもいない椅子に腰かけて話しだすK──もう少し居座るつもりらしいKのことが不愉快でないのを不思議に思いながら、自分も向かいに腰を下ろした。