執行人

 マチステア・ヴァとゾヨイヤ・ベルツンが澱んだエーテルの渦巻く深夜の寒空の下、割り当てのバンにもたれて支給品の煙草に火を着けたのは812年のはじめのことだった。ヴァは仲間うちの誰もがやるように、有害な煙を思い切り吸い込んで肺を汚した。ゾヨイヤは叔父のウェンカイヤ・ベルツンが好きだったのと同じやり方で、唇の端に挟んでプカプカふかしていた。二人が幅広の道を挟んで眺めているのは小さな窓が均等な間隔で貼り付いたアパルトメントで、無味乾燥なデザインを取り繕うために、二階から上が軽薄なスカイブルーで塗られていた。一陣の風が吹き抜けると、膝の下まである革のコートの裾がめくれ、ヴァは肩を寄せてぶるりと身を震わせた。
「寒いな」
 ゾヨイヤはくわえ煙草のまま笑い声を立てた。笑われたヴァはわざわざたっぷりと煙を吸い込んでからその呑気な横顔に向かって気の済むまで吹き付けてやると、「何がそんなに面白いんだ」と言った。
「何って」喋る為だか、くわえた煙草を唇から離す。指の間に挟んだ吸いさしが、霜の降りた敷石に灰を落とした。「君が寒がっているのが面白いのさ。鏡でもあればはっきり見せてやれるんだが、鼻とか頬とか耳たぶが真っ赤なんだ、人間ってやつは寒さには慣れないものなのか?何年ここで暮らしてるんだ?」
 ヴァは乱暴に耳をさすった。「生まれたときからだよ」当たり前だ、そうでない者はこの国に住めない。
「ふうん。それにしても多様性ってやつは実に不思議なものだと思わないか?こいつも鏡があればはっきり分かるんだが、僕ら二人は随分違う。顔の赤いのを除いたら……君にはあんまり色がないな」
 確かにヴァの瞳は、陳腐な表現をすれば"黒曜石のごとく"黒々としていた。それを眺めるゾヨイヤの目はというと見境なく光を取り込んで、またしても陳腐な表現を使えば”宝石のように”きらきらする派手な青緑をしていた。こんな色には洒落た名前がつくだろう、とヴァは思った。
 二人の男はある程度対照的だった。マチステア・ヴァは少しずんぐりして筋肉質な男である。整えられた髪は瞳と同じように黒々としていた。一方ベルツンの末息子の髪はというと、根本から色の抜けきったやる気のない乳白である。身丈は大抵の人間に頭ひとつ分、もしくはそれ以上足した程あった。肌の色はどちらも青白かった。
「長いこと待っているのに、一向に出てきやしない。本当にいるんだろうな」小さい方の男はもぞもぞ体を揺らして足踏みした。もうとっくに足の指が何本あるか分からなくなっていた。
「おお友よ、果報は寝て待ちたまえ」
「なにが寝て待てだ、あと30秒して今のままなら、俺は車に戻るぞ」
 エンジンの切ってあるバンの気温は外とさして変わらないはずだが、風がない分過ごしやすかろうと思われた。
「まあカッカしなさんなって。そうら、噂をすれば影だ。これで帰れる」
 楽しげに指差す先ではダウンジャケットに身を包んだ中年の男が、大きすぎるガラス扉の重量と戦っていた。苦労して押し開けた隙間に体をねじこんで、ようやっと出てこようとしている。
「奴さん、どうあっても人目に付くところではやらないらしい。追い詰めて使わせるしかないな」
 ゾヨイヤの声ははずんでいる。ヴァは腰のあたりの重みを確かめた。
「今週分の弾があと2発しかない」
「じゃあ殴れよ。もたもたしてると行っちまうぞ」
 ダウンジャケットの男が小さく身を縮めて歩きだすのと同時に、二人は吸殻を投げ捨てて足を踏み出した。ばらばらに路面を踏んだ革靴は、どちらも使い込まれて皺だらけだった。

 街灯をひとつ行き過ぎるたび、男の影はぐるりと円を描いた。一定の距離を保って、二人の追跡者が続いた。右手には同じような集合住宅の棟が延々と立ち並び、"国益記念日"のパレードで沿道を埋め尽くす、無気力な市民の姿を想起させた。足音は厳冬の薄い空気によく響く。前を行く丸めた背中にもそれは届いているはずだったが、彼は走り出したりしなかった。後を追う二人も隠れる素振りすら見せなかった。それは奇妙な協定のように両者を結びつけ、3つの靴音が同じ調子で 通りを下り、交差点を3つ渡って、角を右に、左に、そしてもう一ぺん左に曲がった。
 そこで男は足を止めた。あたりは吹き溜まったごみとセンスのない歪んだ落書きだらけだった。破れだらけのフェンスの向こうでは、スクラップになった自動車が、生まれ変わる日を夢見たまま折り重なって錆び付いている。 男が振り返る。気の弱そうな禿げた額に黄ばんだ街灯の光が降り注ぎ、その下にある眼差しの真剣さをいくらか損なっていた。
「現実局の犬どもめ」憎しみを滲ませた声はややかん高い。「俺をつけていれば"あの人"の所まで連れて行ってもらえるとでも思ったか?冗談じゃない、お前らの車とその薄汚い制服は1キロ先からだって目につくぞ」
 立ち話に丁度よい距離まで詰めてから、現実局の犬ども、ヴァとゾヨイヤは男に相対した。どちらも楽な姿勢でいた。ヴァは腕を組み、すぐ側にある壁にでかでかと書かれた黄色い飾り文字を読んでいる。ゾヨイヤは敵意に満ちた小男へ屈託ない笑顔を向けた。
「君ごときをつけたところでそんな幸運にありつけるとは思っちゃいないさ。だいたいクウィン・ラのような大物は我々の獲物じゃない、下っ端は下っ端らしく、下っ端の相手をするものと決まっている。頼むから僕らのような下っ端をこれ以上いじめないでくれ、あんたがあんまりもたもたしてたもんで、もう芯まで冷えきって寒くて仕方ない」
「おしゃべり野郎が」
「なんだって」ミュージカルのように大袈裟な身ぶりで肩をすくめてみせる。
「おしゃべりの何が悪いんだ。人間が人間たる所以は、言語によるコミュニケーションを行うことだろう。それを、放棄させようというのか。ははん、つまり僕に……畜生になれと言うんだな!」またも大袈裟な身ぶり。今度はにやりと口角を引いて歯をのぞかせる。「生憎と僕は人間をやめる積りはない。こいつは口から先に生まれてきた、と周りの人間は言うが、口から先に生まれて来なかったら、それは……」わざとらしい一拍。「逆子じゃないか!」
「おい、そのおしゃべり野郎は喋らしとくといつまでも黙らんぞ。くだらんおしゃべりをこれ以上聞きたくないんなら、勿体ぶってないでさっさと使えよ」しびれを切らしたヴァが口を挟む。ゾヨイヤは一度喋りはじめると長い。
 男は答えの代わりに唾を吐いてから、歯軋りをし、口に含んだ何かを噛み砕くようにもぐもぐと口を動かしはじめた。食べかすや唾液の代わりに、耳慣れぬ言語のくぐもった呟きが漏れてくる。身構えるヴァとゾヨイヤに、もう先ほどの弛緩した雰囲気は微塵も残っていない。

 マチステア・ヴァがそれを目の当たりにするのはこれで18回目だったが、いつだって新鮮な畏怖と驚嘆の念、そして好奇心に満たされた。それを認めない訳にはいかなかった。平凡そのものの小男の手のひらでわき起こった火柱が怒り狂う蛇のように躍り上がり、電灯を砕いてその破片をなめると煤の塊が火の粉とともに舞い散って、溶けたプラスチックの臭いが鼻をつく。自らの作り出した光と熱の奔流の中で、男はゆっくりと足を踏み出す。
「そら、現行犯だぜ」白髪頭が嬉しそうに揺れた。

魔法使いは秩序に対する反逆者である。この現実改変の力を排除することが、ヴァとゾヨイヤ、現実局の執行人の仕事だった。