文明と魔法
ファンタジー設定の創作物
やたらと目のちかちかする晴れ間だった。ソファに身を沈めたパハルベル・ラズムンは、手に入れたばかりの上等な葉巻を箱から出して、ためつすがめつ眺めていた。昨日獲ってきたふたつの首の報酬だった。罪人のごとくギロチンにかけて火をつけると、豊かな旧世界の香りがした。唇をつければ吸い口から魂が流れ込むようだった。煙の中に見えかくれしている、15時間前には息をしていた二人の魔法使いの魂。恨めしげな様子もなく、血の気のない顔の輪郭を揺らめかせて、ただ白昼夢らしくボンヤリとそこにあった。 文明が魔法を拒むようになったのはいつからだろう。祖母の幼い頃には祭の晩に魔法使いが灯を点したものだった、家々の間にかかる、夜のとばりへ縫い付けるようにして。そんな幻想もいまは遥か、いずれ炉端の夢物語さえ許されぬようになるだろう。やたらに明るい窓の向こうでは、土くれと鉄とで作られた文明が、陽の光に干されている。
とじる40年くらい前には現実局は魔法局と呼ばれていて、「市民に害を及ぼすような」魔法が取り締まられていたものだ。今では魔法と聞けばアレルギー、あたり一面掻きむしって血を流すまで収まらない。祖父が連れていかれた日のことを忘れない、あの11時の曖昧な曇り空、漆喰に落ちた影法師が若草色のポーチを胸のむかつくようなどぶ色に変えていた、そうして、この世のどんな鉱石にも宿らない神聖な灰青色の双眸が、逆光の暗がりから私を永遠に縫い留めてしまった。私は忘れない、祖父が塗っていたニスの香り、わが家に踏み込んだ男の立てた重い靴音、祖父の着ていた皺だらけのベストの背中、誰も一言も発しなかった。忘れない、あの時祖父が私に向けた眼差しの奥には別れの言葉が揺らいでいた、遠くなっていくエンジン音をいつまでも聞いていた、祖父の二度と戻らぬ事をただ寂しく思っていた、彼が塗っていた椅子の背もたれは、それきり塗りかけになってしまった。あの11時の雲を透かす呆けたような白。
とじるベルツンの家の人間が揃って食卓を囲むのはここ数年では珍しいことだった。ゾヨイヤは右隣で煮魚の目を転がして遊んでいる、姉の横顔を眺めていた。この姉はある前衛芸術家のグループに属していて、活動の大部分は無意味なたわごとの具現化に費やされていた。彼女、ティルザヤ・ベルツンのいちばん新しい作品は、身をすっかり食べてしまったあとの魚の骨だった。「お行儀が悪いわ」と母が呆れたように眉を寄せて笑う。煮えて白くなった目玉を口に放り込むと、ティルザヤは夕食で遊ぶのをやめ、来週グロンワツクの広場で行う予定になっている、新しいパフォーマンスについて喋りはじめた。話の雲行きが公衆の面前での魔法の行使へ向かって、怪しげに渦を巻く。相槌もなしに聞き流していたゾヨイヤは執行人として忠告せざるをえなくなった。待っていたとばかりにティルザヤは、「最後に必要な色は黒よ」と笑みを浮かべ、ベルツンの家では皆がもつ、白い髪の先端を捩った。
とじる常夜燈の下で僕たちはワルツを踊った。もちろんステップはいんちき、流れる音楽はそのへんで盛っている猫のへんな声で、どうにもやりきれないほど格好のつかない夜だった。あてつけみたいに曇っていた最後の夜、君はかさかさに乾いた唇にほんの少しだけ血の色以外の赤を足して、僕は黙って借りてきた祖父の一張羅の襟に本物の金を飾っていた。いまにもつま先がしゃべりだしそうに剥がれかかった安全靴が地面を叩くたび、僕は彼女が転ばないように氷を溶かしてやった。昼間溶けた雪が凍りついた煉瓦の道は、砂糖がけの焼き菓子みたいだった。世界は僕たちを囲んで何度もまわった、痩せた彼女のおなかのあたりから笑い声がくつくつとせりあがり、朗らかにカーブした唇の隙間からあふれでて僕の耳をくすぐった。それはすぐに吹き散らされて夜の雲の中、それでも次から次に楽しい音を紡ぎだし僕らは夜の風の中、それから星の見えないこんな最後だったけれど、さいごにとびきりロマンチックで甘い口づけとともに君は僕を忘れた、ふたりの家を忘れた、ラジオの傷を忘れ、ベッドの温もりを忘れ、指輪の痕を忘れ、魔法使いを忘れた。
とじる男は西から来た。漆黒に近い褐色の肌が、この地方の冬の貧弱な太陽の光を粉にして散らした。建ち並ぶ無味乾燥な立方の住居は、この男の彩度を恐れているようだった。男が羽織っているのは薄い木綿の上着だけで、下のシャツとゆったりしたパンタロンもやはり軽やかな布地で作られていた。アパルトメントの隙間から吹き付ける一陣の風に震えることもなく、彼は悠々と歩みを進めた。極彩色の輝石のかけらが編み込まれたサンダルから垣間見える足底の色はやや黄みを帯びていくぶん薄かった。瞳はカラメルと琥珀のあいのこで、寒空を映したそれが二三度またたくと、すべての窓は霜に覆われて好奇の目を閉ざされた。つるりとした頭に金のインクで刻まれた鋭い目の意匠が示すもの、未だオゾロノと呼ばわれる民の男は、東で隠された魔法の申し子である。
とじるゲザトア・ママハルの脳裏をよぎったのはこのような光景だった。女が立っている。一面の小麦畑。黄金の穂先が荒れ狂う。質素なドレスの裾は大きく膨らんでははじけるように乱れ翻り、乳色の髪はいま山ぎわからわき上がる雲の形そのままに荒々しく、空を掴もうと身じろぎする。ほとんど顔を隠してうねり、ばらけた髪の間から、一対の瞳が燃えている。いくたりもの鉱夫の命を吸った闇の底からすくいあげられた貴石、ひび割れたその割面で散らされた光は彼女の藍緑に無限の色彩を散らす、いかなるものも刺し貫いて焼き尽くしてしまうあの鮮烈な決意は竜の火、見るものの魂から欺瞞を剥ぎ取り、罪と真実とを剥き出しにした。彼女の名のうしろにはベルツンの優雅な綴りが並び、死にゆく魔女狩りの視界に重なった。
とじる塩を入れれば他の味気なさを誤魔化してしまえると言わんばかりに塩辛いスープを、ジズルマク・スゥはおいしそうに啜った。体の温まるものならなんでも歓迎だった、特にこんなふざけた雨の夜には。靴の中では洪水で5人家族が二組溺れている。右足の一番小さな末っ子はそろそろ壊疽にでもなりそうだった、もう二週もぐずぐずしていた。下水管の補修は傷を診てくれる医者になどなりようもなく、賃金は部屋代と食費を賄って、それでトントン、終わりになる。
とじる芯まで冷え切った身体を温めながら、ヴァは物思いにふけった。とりとめもないことだ、今日やっつけた魔法使いが作りかけにしたパイのレシピとか、戸棚の奥からゾヨイヤが勝手に持ち出した果実酒のこととか、取り落とされた時に角の折れた発禁本の挿絵とか、そういったことがふつふつと湧いては弾けていく。ヴァはなかなか泡立たない石鹸を擦りながら、俺たちのやっていることは泥棒と変わらないな、と独語して、くしゃみをした後には既に、戸棚の上に置いてきた「エリュイカーのまほうつかい」の小さな主人公を、白髪頭にするかどうか考えはじめていた。
とじる イツトワ・ミレチは仲間の胸にあいた穴を懸命に埋めようとした。教育は彼女の作業を助けたが、彼の命は救わなかった。血が流れすぎていた。破壊された神経と筋繊維が結び合わされ、銃創をあたらしい皮膚が覆い隠したちょうどその時、患者の命の灯火は吹き消され、後には綺麗になった肉体だけが残された。脱帽し肩を落とした男女が殉教者を囲んで黙祷する。徒労にに終わった処置の術者だけが、壁にもたれてこの弔いの儀をただ眺めていた。落ち窪んだ眼窩の奥から、憔悴のベールを纏った怜悧な知性の輝きが、死を目前にした獣特有の激しさで、無闇とぎらぎらしていた。
弟の血潮と引き換えに、少し等級のいいだけの食事、その程度のものを手にいれた人間がいる。冷めた憎悪が内側から肌を焼き、イツトワ・ミレチはわが爪をもって、胸の疵をひとつ増やした。
「イツトワ、これを見て」
まだ十にもならない子供の声が、路地の暗がりで跳ねる。時刻は午後二時四十五分、街は昼餉の余韻にまどろんでいて、人通りも乏しかった。くすんだ赤毛の少年が丸めていた手をゆっくりと開くと、ほのかな光を帯びた水が玉になって浮いていた。中心には金の小魚が泳いでいて、これが砂粒ほどの鱗の一つ一つから光を放っているのだった。
「あんたの魔法って素敵だよ」
同じ色の髪を束ねた年長の少女が答える。彼女は注意深くあたりに目を配り、ぼろの上着で弟を隠すようにその側へ寄った。隠すように、ほんの遊び心にも異端狩りの火を点す世間の目から、清潔な寝床とふた親の温もりを知る彼らの目から、恐怖と欺瞞とに曇らされた人々の目から、無垢な弟の優しさを隠すように、彼女は佇んでにっこりした。
イラレイナ・トォはまだ一度もつけたことのない真珠のイヤリングを耳朶に飾った。それは祖母の形見であって母の贈り物、女たちがこれと定めた男たちの内にある気品と洗練の定義を我が肖像をもって塗り替えるべく身につけられたものであって、連綿と受け継がれたあるひとつの魔法だった。鏡台に並んだ化粧道具のどれひとつとっても浮き足だった乙女の不安を宥めるに足る働きはせず、ただ素朴なまじないだけが恋人に会う前の女の気を鎮め、めかしこみ整えた鏡像へ仕上げの満足を与うのだった。ロナ・トォはくたびれた色彩のアパルトマンから出かけていった。待ち合わせの駅前で相手に手を振ったとき、口紅の色や装身具を褒める繊細さを期待したりはしなかった。しかしマチステア・ヴァは言うべきことを言った。とても綺麗だ。彼女は俯き、静かに頬を赧めた。耳飾りの真珠が揺れる。
とじるマチステア・ヴァは側溝に屈み込んで嘔吐した。無茶な飲み方をしたのはいつぶりか、痛みを除いたあらゆる感覚のうちに、したたか頭を殴られたような重心の混乱が続いていた。吐いたものにはほとんど固形物が混じっておらず、何だか分からない昼食の滓が、先客のものらしい半端に咀嚼された麺類の切れ端にへばりついていた。そんなものを見ているとまた腹の底からせり上げてくるものがあって彼は背中を丸めたが、ひとしきり汚い音を鳴らしても胃液混じりの唾のほかはなに一つ出てはこなかった。口元をぬぐうと不愉快な臭気が漂って、悪酔いした男に恥や決まりの悪さを呼び起こした。こんなのはみっともなさすぎる、とヴァはあたりに人気のないのに安堵した。電灯へ蛾や羽虫が群がっているだけだ、あの光源のカバーには死骸がいくらでも溜まっているんだろうが。
とじる男は雨雪を受ける如くに天へ向けて五指を開き、節くれだって長いそれらを次々に折り畳んだ。親指が他の背を撫でる感触は彼の脳髄でより無機質な摩擦に転じ、火花は現実の路面を押し上げて爆ぜた。激しい熱と衝撃が音と火を伴って敷石を砕き散らし、遅れて絶叫が続いた。硫黄の臭気は不運にも通りすがった人々の部品からもたらされ、彼らは血溜まりの中で自らの生の尽きることすら悟らずに命を終えた──爆発だけが断端へ残り、午後の日常の平穏を潰し、抉り取られた肉の窪みから怒号と恐怖が噴き出して、屈辱なしにはそこに在れぬ傷となった!カザレク・オドノゼがぼろの靴音も高らかに路地の暗がりへ長い身丈を隠す頃、魔法は万人の幻想に固定した、一人の幻覚にある破壊と悲劇とを、そして彼らが執行人の黒の後ろに覆い隠した敵は鮮やかに蘇り、誰もが魔法使いを畏れた。
とじる春の娘の手を取り踊る、夏の娘の体を抱いて、秋の娘に重ねた歌は、冬の娘の口づけ誘う。
男は工房を訪れ、その荒れ果てた様に言葉を失った。この国で生を受ければ創造を行う場は神聖であって侵すべからずと魂の根に刻まれている。床の上には職人の骨であるところの道具と、職人の血であるところの素材が無秩序に散らばっている。木の一片でさえも色調にまだ存在を成す前の美を宿したが、既に土埃により穢されていた。水を打ったような静寂は、お待ちしておりましたよ、という声に乱された。パヨべ師の弟子の一人かと思われたが、それにしては若く、簡素な装いにもどことなく生まれついての気品があった。常識に飼い慣らされた男の胸に、雷が閃いた。それは娘だった。シガ・ザーンナク・ダリュス・カ・パヨべの冬の娘トイカが芯を崩さず自立していた。暗がりに瞳を光らせて、命無きはずの人形が乞う。私の姉妹を歸らせて。
とじる