「チェスナット!」
 整った身なりの男が振り返る。チェズナット・ドーツは自分の名前が嫌いだった、誰も彼もが甘く香ばしい想像をして、彼の名前をかじるのである。栗じゃない僕のは濁るんだ、余計な文字も入れるな、何度そう言っても彼らは間食をやめようとはせず、君に合ってるいい名前じゃないか、と次の一口を要求した。幸か不幸かこの男は髪も瞳もこの上なく艶のあるチェスナット、服装のどんな色味も連想の魔法で包んで、秋の実りに染め替えてしまうほどだった。
「チェズと」本当は彼はこれも気に入らなかった、だが幾分かはましだった。
「チェスナット」
 駆けてきた男は悪びれもせず間違いを強調してみせた。眉根を寄せて不快感を顕にする相手の様子に、まったく頓着するそぶりもない。ドーツはこの男に見覚えがなかった。
「あんた、うちの隣に住んでる人だろ。昨日からあんたの隣の空き部屋は、空き部屋じゃなくなった。バーゼルだ。よろしく」
 不敵な隣人は慣れた仕草で右手を差し出した。指の腹がうっすらとチャコールグレーに染まっている。ドーツが握手を返しながら尋ねると、お決まりの流れとばかりに淀みなくこう答えが示された。
「灰町で印刷屋をしてるんだ。最近じゃ匂いつきのインクを使う。これは機械工の労働組合の組合報に使った」
 犬に対する礼儀よろしく向けられた手のひらを断って、さっきそれを握った自分の指先を嗅ぐと、確かにインクのものとは異なる、重い油と金属の匂いがかすかに鼻腔を漂った。こいつは凄いな、とドーツの口から漏れた素直な感想は印刷屋を微笑ませる。
「割引で名刺を刷ってやるよ。あんたのインクは焦げ茶色で、少し香ばしげな甘い香りが良さそうだ。みんな名前を間違えるだろ?」
 からかわれた男はむっとして顔をしかめた。失礼な話し相手の口元にはまったく純粋な親愛の情が浮かんでいて、喉まで出かかった皮肉は勢いを削がれて頼りない文句に位を落とした。いわく、初対面の他人の名前で遊ぶなんて失礼な奴だな、ぶつぶつ。これを聞いたバーゼルは朗らかな声を転がして失礼を形ばかり詫びたのち、最後にはドーツがこの男の込めたむやみな親しさの理由を知り、非礼を許して一杯やりにいく気にさせるようなとっておきの言い訳をひとつ、隣人の名を知ってすぐ用意していた通りの文句で口ずさんだ。
「僕の名前はランタンというんだよ、あんたのように本当は違うと逃げることもできないくらいランタンさ。親に遊ばれた同志を見つけて少しばかり調子に乗った。どうだろう、時間があるなら馴染みの店でおごらせてくれないか」
「そうか……君の名刺の香りはなんだ?」
「灯油さ」
「なら行ってもいい。ふたつ下の階の面倒な悪がきの、ご機嫌のとり方を教えてやるから……」