寝る前に、あるいは眠る時に、落ちていくような感覚に襲われる。ある人は単なる錯覚だと言い、ある人は受診を勧め、ある人は単に笑った。同じ経験をしている人は無数に居る。説明もついたよくある現象だ。私は特に気にしておらず、何ひとつ害もなかった。新しいシーツの感触を心地よく思いながら、私は布団にくるまった。枕は日中にたっぷり吸い込んだお日さまの香りがしていた。カモミールの入浴剤でほどよく温まり、眠る前に呑んだのは蜂蜜入りのホットミルクという念の入れよう。ここのところ残業続きで、私はぐっすり眠りたかった。物思いがだんだんと取り留めがなくなってきて、少しずつ、ゆるやかに、意識がまどろんでいくのが分かった。もしかしたらそろそろ例の感じが来るかもしれない、そう思った時、耳にはっきりと、男の声でこう聞こえた。
「こうしなければ私の立場が危ういのだ」
 私はバルコニーの手すりに押しつけられた。つめたい石で作られている。見開いた目には満月の逆光でくろぐろとした男のシルエットがいっぱいに広がった。髭もじゃのその男は、多分、私の情夫だった。
「けだものめ、お前が永遠に呪われるといい」私はものすごい力で首を掴まれながらも、できるかぎりはっきりと言葉をつくった。「私は忘れない。お前を呪いつづけるために」
 そして私は落ちた。落下の感覚が包み込む。私はそこで飛び起き、我が身を抱いて激しく息をついた。落ちていくような、ではなかった。忘れなかっただけだ。確かに落ちたのだ。