私はこんな場面を繰り返すたび、人間の、失敗やそれに付随する罰やなにかに関する狭量さを、ジクリと痛感いたします。以前、針金工場の前に勤めていた場所では──この辺りの詳細については、申し上げることができません。悪くすると、職を失うのみならず、賠償命令を下されることになるのです──私が部下の不正を見咎めて、しかるべき処分をいたしましたところ、彼は唇を噛みながら、自分の軽率な行動を悔いているようでしたが、処分明けの当日から私が工場の担当に変わるまで、私を見るときにはいつだって、あの油膜のようなぎらぎらした玉虫色の光を瞳のうえに宿し、それでいて、棒で叩かれたばかりの犬のように、私に怯えておりました。棒で叩かれた、などと申しましたが、無論処分といっても、暴力に訴えるものではありません。余分な事務仕事とか、減給だとか、そういったことです……それも三日、たった三日ぶんの処分でありました。それだけで、彼はもう自分と私との関係を定義してしまったのです。上書きを許さない、おそろしく頑なで、ひどく臆病な定義です。許すことも忘れることもできません。彼だけではありません、私自身だって、人間なら多かれ少なかれこのようなラベルを他人に貼ってしまうのです、どんな親しい相手とでも、一時的に親と子供、教師と生徒、上司と部下、力関係に当てはめ、顔を合わせれば、ある種の気まずさを覚えてしまう、それがのちのちまで、頭の片隅に残ってしまう、そんなようなことが繰り返されているのです。そのようなわだかまりはかみそりで刻んだ傷(この表現を不適当と考える人もございましょうね)のように、時とともに、あるいは優しい言葉やなぐさめによって薄まりはしますが、瘢痕は白い筋となって、いつまでも残り続けます。それが時折目について、目について仕方ないのです。そこへいくと、機械たちの反応は、気持ちのよいものではありませんか。さくりと、忘れてしまう。私もさくりとボタンを押して、起こったこと、思ったことは電流とともに流れ、まっさらな状態に戻ってしまうのです。人間ではこうはいきませんね、人間同士であると、お互い傷つけあった関係性が治癒する過程で、やはり何らかのわだかまりが残ってしまうのですから……。