どこぞの国に、王様と乞食とがいた。若い王様は金銀と象牙でつくられた宮殿で大小の宝玉がさざめく中に呼吸していたし、乞食は街でいちばん栄えている界隈の隙間のせせこましいところで泥や水たまりにはみ出して暮らしていた。ある日のこと、王様が気まぐれを起こしてちょいと宮殿を抜け出し、城下を散歩に出ることがあった。その清い面差しと安らかな歩の運びに、すれ違う誰もがこの方を高貴な身の上と認めたが、きっと御深慮あってのこと、下じものものが無用な進言で貴人の耳を煩わすことはなかろうと、みなその人のまとう衣の精緻な織りを見つれど只そばを通りすぎ、時折屋台の品物の幾つかを純粋な金貨で買い求めるのを静かな口調で断ったりした。
「朝のはやい時間ですから、お釣りがありませんで……。」
「お釣りはいいよ、その分は親切への謝礼として持っていらっしゃい。」
「いえ、これでも商売ですから、あのお客さんには余分に貰ったとか、貰わないとかの差をつくりますと、困りますので……。」
そのとき乞食はというと、結局は泥にまみれてしまったひとつきりの外套の裾を乾かそうと、指物屋の裏の日だまりでばたばたとがんばっていた。そのうちに指物屋のおかみがブラシ片手に出てきて、これで少し擦んなさい、やさしくですよ。と言った。乞食は気の抜けた顔でへえへえと返事してブラシを受け取ったが、空を見つめているうちに漸く合点がいったらしく、こびりついた泥の欠片を丁寧に擦り落とした。切り揃えられた太い毛が布地を痛めぬよう心を砕きつつ、これは豚毛であろうかと思案した。
さて、王様は目にはいる民草のうちにずるいものや醜いもの、喧嘩をするもの、弱いものいじめをするもの、嘘やごまかし、虚栄やひけらかしのないのに大変満足した。街路は綺麗に片付いていて、あとからあとから道の果てより継ぎ足されていく街並みは種々の細かな差はあれど、一定の階調で統一されており大層美しいものだった。この道は城を囲んでぐるりと一周しいるので、はじめに曲がった大路に行き当たったらば頃合いもよかろうと、王様は胸のうちでこのように視察の予定を立てていた。ところが、街の最も栄えた部分を過ぎようとした王様の前に、よろよろとまろび出てきたものがある。王様は唖然として立ち止まり、もみ手して寄り来るこれを見守った。外套はものこそちゃんとしたウールであろうが、積年の砂ぼこりと泥と雨とで真っ白になっており、そこかしこが縮んだり伸びたりしてひどく不恰好な形をしていた。そしてどうやら片ちんばであるらしい乞食の靴の片方は、始終引きずられているためか単に古びているせいか、へさきに大穴が開いていて、爪の歪んだ足の指がむき出しになっていた。
「おや、お前は何だろう!」と、王様は礼儀も忘れて乞食の顔や服をじろじろ眺め回した。
乞食は呼び掛けた。「へえ、そこゆく金持ちそうなお方。あっしは乞食でござあ。どうも、払いのよさそうなお方。青銅貨一枚で良ござんす。お恵みくだせえ、お恵みくだせえ。」
王様はこのように身を立てている人間を見るのが初めてだった。よくよく眺めて分かったのは、この乞食が伸び放題の髭を剃りおとしへつらって曲げた腰をしゃんとさせれば、自分とさほど変わらぬ歳であるということである。若い王様にとってこの出会いは、やんごとない身分の方々やお堅い司祭や古木のような教育係以外の交流を持つには絶好の機会と思われ、またそれが名案であるとも思われた。まさか乞食が幸福の象徴であるはずもなし、この国の貧しさや不幸を啜って生きる恵まれぬものどもの代表であることは、日の出が東よりもたらされるに等しく明らかだった。
「ねえ、君は空腹だろう。」
「クウフクとはなんですか。」
「満足に食べられていないだろう。」
「そいつは、まあ、そうですな。」乞食は薄汚い髭を撫でた。「きのう、芋虫をほじくり出して食べましたんで……そんでも腹は膨れません、オヤ、すると空腹てのはすきっ腹のことですか。」
「うん、そうだ。君が今たいへんすきっ腹であるなら、どうか私のお客さんになってはくれないか。」
「へぇ、それっていうのは、タダなんですかい。お客は、金を払うもんでしょう。」
「家に招くお客さんというのはね、むしろこちらからお願いして来ていただくのだから、お金は要らないのだよ。」
「そんじゃ、まいります。」と、乞食はここでやっと礼節らしいものを思い出したか、あごをつき出すようにして頭を上下させた。会釈のつもりである。王様はこの無礼な会釈を咎める気も起こさずウンウンと頷きながら、十年来の友人にするように親しく肩を抱いて城へといざなった。街の人間ははたから見ているだけで彼らの行き先が分かったが(そしてめいめいに勝手に噂の煙を焚いた)、乞食はある司書の家の庭のりんごの木を見上げる以外は満足に目線を上げることがないので、街の真ん中にりっぱな城が建っていることを知らなかった。
それからというもの、乞食は王様に割り当ての部屋を貰って、宮殿で暮らすようになった。見てくれは王様の予想ほど綺麗にはならなかったが、少なくともむさ苦しさと埃と泥とは洗い流されさっぱりとした。ただどことなくみじめったらしい様子は残り、腰も曲がったままだった。
王様はこの乞食とよく遊んだ。蔵書のうちやさしいものを読み聞かせてやったり、本物の芸術家の絵や音楽に親しませ、食事も同じ部屋でとった。乞食はというと、王様の耳に入る前に侍女たちがはたき落としてしまうような通俗的な歌を歌ったり、太った地虫の探しかたを教えたりした。二人はお互いが何となく友人であるような気がしていたし、事実友人と称しても差し支えない位には親しく付き合っていた。
ところが、そんな暮らしが一年ばかり続いたある夜分、王様はこそこそと廊下を忍び歩く乞食の姿を見かけた。どこに隠していたやら、あの埃だらけのぼろ外套を着込み、曲がった腰をいや増しに曲げて鼠のように中庭へと抜けていく。王様は後を追い、石造りの回廊には滑るように移動する二つの影が長く伸びた。
裏門の側で、ついに王様は乞食を呼び止めるに至った。乞食は後ろあたまに自分の名前をぶつけられ、ばつが悪そうに視線を斜めに送りながら、のろのろと振り返った。
「へえ。」
「どこへ行くのだ。出かけるんならひとりきり、こんな夜では具合が悪いだろう。それに、なにもそんなぼろを着ていくことはないじゃないか。」
「へえ。出かけていくんでなくて、帰るんで……」
「帰る!」王様は面くらった。乞食が宮殿で得た生活を捨ててあのみじめな飢えた暮らしに戻っていこうとは、夢にも思っていなかった。「どうして。この城で何か不満があるのなら、私に言ってくれればいい。それとも、私が君に何かしてしまったんだろうか。」
乞食はいよいよばつの悪そうな顔になり、冷や汗を垂らして縮こまった。それから、蚊の鳴くような声でこのような申し開きをしたのであった。
「へえ、王様。王様が悪いんじゃありません。ぼくは……あっしは、王様が好きであります。王様は何でもご存知だし、綺麗なものを沢山見せてくださるし、優しいし、親切だ。実のところ、聞かせてくださるお話も、絵とか音楽とかいったものも、あんまり分かりゃしないんですが、それにしたって王様と過ごすのは楽しいことなんでさ。」
「では……。」
「あっしのほうは、どこまでいっても乞食なんで。卑しいもんで、とてもとても……。無駄に喋らして。」
「そんなこと。よし君がどこまでいっても乞食だとて、私がそれを気にしたことがあるかい。」
「ええ、ええ、あんたが悪いんじゃありません、あんたは乞食にだって親切だが、だが周りの人がなあ。あっしが王様とうろうろしているとね、周りの人が厭そうにするんでさ。あんたの友達があっしひとりきりだったなら、いいんでさ。あんたは王様でしょう。あの身分の高い人たちは、いい人たちでしょう。そんでもって、こういう卑しいものが王様に施しを受けて、また下卑た歌をがなったりして、低俗が移るのが厭なんです。低俗な乞食がどうしてあのりっぱな人たちを差し置いて王様と食事などできましょう。みいんな、そう思っています。前に舞踏会に連れていったでしょう。あの時の娘さんの、がっかりした顔を見ましたか。お気づきでしたか。あの娘さんは、王様と踊りたかったんで。へえ、あのですね、あっしだって外れくじとしてくっついていって、外れくじにされるのが厭なんでさ。周りの人に厭がられるのが、厭なんでさ。」
「それは君の思い込みではないのかい。それにね、そんな物言いは、私に誠実ではないじゃないか。」
「へえ、ほんとにそうなんで。王様に誠実なんかじゃいられません。なにせ、ひねた乞食風情なんで……さっきも言いましたがね、あっしにはここにあるものはよくわかりません、りっぱなものなんでしょうが、正直に白状しますとね、あっしにとっちゃ何もかも、道に転がってるものと、そう大差ないんで……そんなものどうだっていいんです、腹が膨れていて、暖かくできていて、そんで王様が遊んでくださればね……まあ、今となっちゃそれこそどうでもいいでしょう、出すぎた真似をして、身に余りある親切をいただきました。そんじゃ、さよなら……。」
乞食は苦しそうに咳き込むと、踵を返して門をくぐり、城下街の綺麗な坂を下っていった。埃と泥と水のひとかたまりのようなその後ろ姿が小さくなっていくのを見ながら、王様はなんだか罵声を浴びせたいような、やるせないような、笑いだしたいような、奇妙な心もちになっていた。