泥沼を三日三晩這いずるように進んでようやく、魔王城の黒い城壁を見るに至った。振り返れば幽鬼のごとく衰え困憊した仲間の顔が並び、背後には毒霧が幾重にもたちこめて、その向こうにあるはずの森や渓谷、砦に塔に、それに我々小路や畑や、集落の教会の鐘楼などといった馴染み深い景色を覆い隠してしまっていた。水分のない堅い地面は砕いた骨に似る乾いた乳白で、毒にやられた枯れ木立が風化すると、思いがけずこのような色になるらしかった。我々はここでようやく長く詰めていた息をつき、わずかばかりの英気を養ってから城内へと侵入することになっていた。霧のもたらしていた水っぽい腐臭がやっと鼻腔から去ったあと、真っ先に膝をついたのは殿を務めていた戦士だった。彼はぜえぜえと喘ぎながら、ちょっと待ってくれ、という一文だけ喉の奥からなんとか絞りだし、どうと倒れてそのままになってしまった。死んでいた。蘇生の呪文を使うには僧侶も消耗しきっていて、彼はしばらくそのままになった。皮肉なことに、蝿一匹すら姿を見せない死の土地が、遺体の保存には好都合だった。野営の支度もそこそこに、旅の仲間はやっと息をしているだけの襤褸切れと化して、次々にぐったりと横になった。ここ数日は足元ばかり写していた私の視界は、晴れて(・・・)消失点のない分厚い雲の拡がりを眺めるに至った。
 頬についた泥が乾いてひび割れる頃になってようやく、僧侶が身を起こした。その所作は彼女が生まれ持ち、教養によって育てられた気品や優雅さがまるで失われてしまって、病んだ獣が水を求めて我が身に鞭うち立ち上がる姿によく似ていた。骨の軋む音が彼女の身の内のみならず、こちらの鼓膜まで届くようだった。私も漸く勇気をふりしぼり、重力に逆らって起き上がった。幻惑の魔術とてかようまで視野を乱さなかった、強い眩暈は私が視界の端で戦士の蘇生を確認するまで続き、僧侶はひとりきりであの難解な術に取り組まなければならなかった。復活と引き換えにくずおれた彼女を抱き、戦士は無言で頬を濡らしていた。彼らが恋仲であることを、私はその時初めて知った。
 焚き火を囲んで黙っていると、旅の途中の賑々しい夜のことが走馬灯のごとく眼前に去来した。はじめの夜、まだ私と僧侶の二人だけだった宴は、待ち受ける遥かな道程への不安と早くも襲い来た郷愁の念に脅かされてはいたものの、それ以上に王国の民の未来を託された責任と、まだ見ぬ広大な世界への期待に満たされていた。立ち寄る集落で加わった戦士と魔術師はふいごの如くこの期待に新鮮な風を送り、各々の胸にいっそう燃えあがるものは希望の二文字にほかならなかった。だがいま我々は見る影もなく薄汚れ、惨めだった。あざと切り傷だらけの膝を抱え、腐臭の染み込んだ干し肉を無言で噛みちぎり、誇りも情熱も泥濘と汚濁の中で失い、身に付けているもののほかに携えているのは、王より賜った魔王討伐の命だけであった。
 四海の民は私を勇者と呼ばわった。彼らはそれを私の腰に下がった剣により知るのである。私はとある辺境の村に生まれ、齢が十五を数えた年の祭りの日の夕刻、遥か神話の御代より語り継がれる言い伝えに祝福を受けた広場の台座から、偉大なる予言の剣を引き抜いたのである。私は選ばれた子供であり、他の人間はいかなる力自慢であろうとも、私の剣を持ち上げることすらできなかった。親がわりの老翁に別れを告げ、私は王都へと運ばれていった。村長は自らの代で、この旧き盟約がお伽噺から現実へ羽化した事に畏れを感じているようだった。なぜこの責務が己の父親のものでなかったのかと行き場のない怒りを燃やしつづけ、また、災いに等しい宿命が我が子に降りかからなかったことに安堵してもいた。私は馬車に揺られながら、剣の柄に彫りこまれた見事な意匠のひとつひとつを飽きずに眺め、急ごしらえの素朴な鞘の木目と見比べて、生まれ育ち別れを告げたばかりの村のこと、それから目的地である華やかなりし王都の事を思った。
謁見の日より数年、私は城であらゆる知識と経験とを叩き込まれた。十五人の教師が入れ替わり立ち替わり、私が知るべき世界の秘密のいくつかを説いた。彼らの開く書物の上に著された全てを、私の精神は乾いた海綿のように旺盛に吸収した。また、座学以上に重んじられたのは武術であった。稽古をつけたのは近衛騎士団の長であり、剣の腕では王国広しといえども並び立つものは居らぬと評される使い手であった。鍛練の日々はひ弱な私にとって大きな苦痛だった。夜毎責め苛む激痛にのたうち回り、おのが運命を呪いながら明けぬ夜を恨み、明けゆく朝を憎んだ。しかし一方で、ひとつの痛みが引くごとに自分が強靭になっていくのを感じていた。掌の潰れた血豆が新しい皮膚に変わる頃、私は近衛のうちでも選りすぐりの実力者達と対等に渡りあえるまでに成長していた。師は言葉少なに私を褒め、聖剣には遠く及ばぬがと前置きをしながら、ひと振りの短剣を手渡した。一見して簡素な作りだが、遥か西国でいにしえの竜の死骸より切り出された鋼を鍛え作りあげられた刀身は、この世に断ち斬れぬものなしと謳われた業物であった。私は跪きこれを受けとるその刹那、節くれだった師の指が、かすかに震えているのを知った。それから数日の後、私は魔王討伐の旅へと出立した。教会から伴として選ばれた僧侶が同行した。王国の兵がこの貧しい隊列に連なることはなかったが、これは予言の一部であった。我々は聖なる身、これに加わるはいにしえの神々が定めた運命の子らのみ……というわけだ。訝る私を宥めるため、僧侶が口ずさんでくれた歌を、いまでもはっきりと思い出すことができる。あの伸びやかで澄んだ歌声は、王都の聖堂を遠く離れ、辺境の町ニミエアを越えてより始まった苦難の道程に失われて久しい。
 私は焚き火の炎が揺らめくのを、それが一大事であるかのように熱心に視線を注いでいた。かき集めた松明の残りに、魔術師が灯した火だった。頼りない熱を寄越すわずかな光に横顔を浸す術者はやはり疲れきっており、このささやかな篝火を起こすために高価な水薬を数本、咳き込みながら胃の腑に流し込む必要があった。我々は勝ち気で溌剌としていた彼女の惨めな補給の様子を、ただ呆けて眺めるだけだった。私が彼女と出会ったのは、城を出て二ヶ月、《西の森》と呼ばれる大森林の入り口にさしかかったあたりのことで、偶然の出会いではあったが、森に巣食う魔物との戦いにその類い稀な魔力を大いに役立ててくれた。最深部に根を張った病める巨樹を焼き払う頃、我々は互いの運命を悟りつつあった。魔術師はさる都市の生まれで、我々と同じく運命の子とされていた。彼女は幼くして故郷を離れねばならず、歳月は常に修練とともに流れた。北の最果ての四賢者が幼い魔術師の師であった。西の森の深く、私の抜き放った聖剣の閃きに使命を見たと後に彼女は炉端で語り、伏せた目の奥で私の籠手の鋲を数え、静かにはにかんでいた。その瞬間、私は私と彼女とが予言に織り込まれた二つの駒としてでなく、この世の片隅に生を受けた二人の人間として結び合わされているのだとかたく信じるに至った。私は彼女を愛していた。今はただ茫として、幼き日の母の温もりのように遠い。何もかも、霧の向こうの過去に置き去りにしてしまった。
「これからどうするんだ」
 口火を切ったのは先ほど冥府から呼び戻されたばかりの戦士だった。粗野な口ぶりとは裏腹に、そのまなざしには繊細な不安の影が滲んでいた。各々の心中に巣食う憂いの虫は、宿主の勇気をことごとく食い荒らしてしまっていた。
「行こう」私は歯の根が震えるのを感じた。「あと少しだ。城の周辺には治癒の泉も湧いていると聞く」
 まだ見ぬ泉の幻想に誘われ、魔術師が立ち上がった。土の上に残した影は彼女の疲労そのものであるようだったが、確かに立ち上がった。次いで戦士が、それから僧侶が腰を上げ、私に向かって爪の割れた手をのべた。私も立ち上がった。とられなかった三本の手は空を撫でる代わりに、私の腕を、肩を、ベルトを掴んで支え続けた。小石の入り込んだブーツの中で、足裏の皮膚が淡く痛んだ。破れた恋の甘い痺れにも似ている、私は旅立ちの日に密かに想いを寄せていた少女が見せた無関心を、融けかけの夢のように思い出した。
 魔王城までの道のりで、戦士は人里を行き行きていた頃のひょうきんで快活な態度を取り戻していた。無論それは我々の気鬱と疲労に対し彼の思いやりによって掲げられた張りぼての空元気であったが、疑いようもなく仲間達を元気付けた。その屈託のない笑みと根拠のない希望を匂わせた冗談、大袈裟な身振りと確かな足取りは、我々に乾いて全身にこびりついた泥の重みを忘れさせ、曇天と濃霧に浮かび上がる城壁の不穏な圧力を排して決戦への覚悟の火を灯した。彼は勇猛な騎士をいくたりも輩出したさる名家の出身で、私達が領地を訪ねた頃は放蕩に身をやつしてはいたものの、まとう風格と端々で見受けられる洗練された所作は、その時分に彼をとりまいていた山賊紛いの連中とは一線を画していた。私は彼とともに魔王軍に奪われた屋敷を奪還し、その後催された宴席で彼の放蕩の理由を知った。彼もまた、運命によって道を定められた人間だった。この男が生を受けた日、屋敷付きの占星術師が清らかな赤子の面から読み取ったのは人並みの辛苦と栄光ではなく、長く険しい旅路とその果てに渦巻く暗雲であった。老いた占星術師は彼の両親を慄かせた神託の結びに、この選ばれし子、聖なる剣持つ勇者と共に大いなる邪悪と対峙し、これを退けるべし、と告げた。魔王配下の短い統治のあいだに領地は荒廃し、民の生活は困窮していた。戦士は剣ではなく斧を手に、短い隊列へ加わった。彼は言う。この戦斧は武具だが、斧というものは本質的に、人間の生活を切り拓くための道具であると。私はこの言葉によって、そして彼が話してくれた幾つもの物語によって初めて、救うべき“民”を知り、予言の成就した世界の“その先”について考え及ぶに至ったのだった。魔王の眷族を一刀の下に斬り伏せるのが勇者たる私の役目なら、その血に穢された大地を耕し巡り来る四季に豊穣を希うのは民の役目である。私は幾度となく夢想した、毒や呪いに汚された大地が民草の腕の下で息を吹き返し、再び生命の歓喜に満たされる光景を。
 我々は歩みを進め、やがて城壁に辿り着いた。忘れられた魔法、あるいは古き神々に齢を等しくする太古の種族の手によって、山をくりぬき造られた継ぎ目のないひとつづきの壁が、我が矮小たる視界を厳然と魔王城より隔てている。彼方より望んだ本丸は捻れ尖る塔の集積として薄靄を朧に染めたが、その足元に立てばただ黒々とした盾の見えるばかり、不落の城は襲撃者から貞淑に身を隠していた。然し何処にか門は据え付けられ、やがて運命が我々のこの倦み疲れた足跡を魔王城そのものの結末へ撚り合わせるであろうと確信していた。戦士も僧侶も同様であった。ただ魔術師だけが脅かされた鼠の目で城壁の果てない輪郭を仮想の線を交えて追い、始点と終点を重ねるに至って恐慌の相をありありと浮かべた。刹那、脅かされた若駒の如く駆け出すと、恐慌の源、すなわち城壁へと引き寄せられていった。
 彼女は魔王城の裳裾にとりつき、激しく咽び泣いた。
「入り口がない」泥のこびりついた髪の先端が、砂埃を黒々とさせて濡れた頬へと落ちかかった。「どこにも入り口がない」
 我々は長い時間彼女を宥めすかし、慰め、発する己の言葉に自らの疲労と絶望を忘れた。彼女は私の腕の中で奇妙な振戦とともにしゃくりあげていたが、やがて平静を取り戻し、それを軸として千々に乱れた自我の立て直しに成功した。彼女が謝罪と感謝の言葉とともに庇護者の胸元を去り、会話に適切な距離を取ろうとするのを、私は咎めなかった。魔術師は城壁を振り仰ぎ、門はどこにもない、と告げて暫し黙した。憔悴した横顔は暗澹としてみすぼらしく、また凄絶なある種の美を纏ってもいた。
「上を越えて行くのは無理。飛竜が飛び回っているし、壁の上にも見張りがいる。下を掘ろうとしても駄目。この壁はもともと、器のように底で繋がっているの……魔王の軍勢がどうやって出入りしているかは分からないけど、きっと方法があるはず。それとね」汚れた頬に窶れた微笑が浮かぶ。「悪い事ばかりじゃないよ。近くに治癒の泉の魔力を感じる、あの岩の向こうに隠し扉があって、その先に……」
「ならこんな所でぐずぐずしちゃいられないな」
 みなまで聞かずに、戦士が破顔して駆け出した。もう余力の残されていない身体であるのはこの場の誰とも同じだったが、それでも彼は敏捷さを我々の目に見せつける、我々全員をそのかくも勇壮な太平楽の境地に誘うために。僧侶は笑みを溢し続いた、魔術師は私に寄り添い、私はもう一度面を上げた。

私は決意に燃えている。壁は依然としてそこにあり、我々を遮り、避け得ぬ宿命から隔てている。継ぎ目はなく、光沢のない漆黒で、見上げれば果てを見失う程に高く聳えている。運命はついにこの身を掌の内に篭め、私は決意に燃えている。