おはよう、おはよう!
と目覚まし代わりのラジオから年若いパーソナリティの爽やかで、溌剌として、透き通った十代の美声が飛び出してきて二日酔いの頭に突き刺さる。穿たれた穴からは今日の天気や流行のトピックスが流れ込み反響した。わけても近くの川沿いで花のアーチが見られるって話は、昨日その根元にしこたま胃の中のものをぶちまけたばかりの俺の頭に調子よくがんがんくる。ふざけやがって、と悪態をついても鼻の奥にこびりついたやけ酒の代償が消えない。多分幻覚、幻臭といったところだろう。手酷く振られたのは大した痛手じゃない。あの女は金がかかりすぎたし、口が少し大きすぎた。俺の好みじゃない。だから飲み過ぎたのは単に仕事が順調で浮かれていたのが原因のはず、祝杯みたいなもんで心配ない。勝者の余裕でベッドから出した二本の足は、すぐにむき出しのフローリングと出会ってささくれの存在を炙り出した。ここにラグを見つけてやらなきゃならなかった、とびきりのやつを──紺がいい、ただ紺色で地味なやつだ、麻で織られたざっくりした生地──ふらつく視界に地味づくりの俺の城が流れていく。インテリアの配色はグレイッシュ、まだ太陽が背の低いビルの寄せ集めに隠れてコソコソ昇りかけている頃の彩度でかためられているから、本当の時刻を一と半周、戻す仕様になっている。二つきりの部屋を経て脛に痣を三つほど増やし、洗面台で自分のひどい有り様とご対面した後は、もう朝の支度をするだけだった。衣服はどうせ使い古しの雑巾みたいな汚らしさなのでそのへんに脱ぎ散らかしておき、浴槽の縁を跨ぎきれずに足の指を折りかけ、シャワーカーテンを引きすぎて逆の端から丸見えになりつつもなんとか蛇口を捻り水を出す。寝ぼけたボイラーは冷水しか寄越しやがらないものの、それに悪態をついて震えずに済む程度には、気温のほうが上がってくれていた。顔を洗えば、それまでにあった全てのろくでもないことや悪い考えが、荒れかけの肌を流れ滴り、そのまま全部排水溝に吸い込まれていく。べたついていた体から汗や埃や爽やかな朝には考えたくもない種類の汚れが落とされ、それらもやはり排水溝へ居場所を移した。しばらく水に打たれていると小汚さはすっかり洗い流されて、代わりに俺はママの誇りだった頃みたいに清潔(クリーン)になった。もう頭を拭いてくれるママはいないが。
さっぱりしたらまた鏡の前に立つ。俺は身支度が大好きだった。歯磨き粉のほのかな甘み、妥協せず奮発しているシェービングクリームの爽やかな冷感、同じく高級品のポマードと櫛でむさ苦しい髪を丁寧に撫で付ければあれよあれよという間にこの世の屑みたいな中年男が笑顔の素敵な好青年に変貌する。もちろん普段の生活が透けたどす黒い目元やまだ脂ぎって見える頬や額、鼻の頭のざらついたテクスチャはなんとかしなきゃならないが、幸いにして最初に出会った女がこういうののプロだった。白粉に口紅とまではいかないが、化粧は人間の顔を驚くほど変えてしまえる、それが厚化粧のあいつから学んだことだ。あの子は夏でも完璧。首から上が出来上がり、小洒落たスーツに袖を通せばもう誰の前に出ても自分を恥じずに済む人間の完成だ。清潔と知性と洗練の印象はこの商売に欠かせない武器であり鎧だった。完全武装の俺がスタンドミラーの中で微笑む。白い歯が小指の半分くらい覗くのがコツ、これで誰もが好感を持つ、なかでも大事な顧客になりうる層に受けがいい。都合のいいおべっかと薄っぺらな嘘偽りに対して、たんまり金を弾んでくれる連中に。
靴先の曇りを磨いている最中、隣の部屋で窓を開ける音がした。空き家だと油断してたが、ようやく誰か入ったんだろう。頭の中でこしらえる挨拶の文言は隣人の性格に合わせて七通り、華やかさとは無縁の部屋に別れを告げてドアノブを回せば、明るい風の流れとともに花びらがひとつ、舞い入ってくる。わけもなく胸が期待に満たされる。クソみたいな昨日を過ごしたどうしようもない詐欺師の胸にも、春は希望を吹き込むらしい。