旧世界

 ラ=クウィン・ラが何を意味するかは誰にも分からなかったが、この名前は十年以上前から街角の一番汚い路地の片隅に掲げられていたし、ときにクウィン・ラ・テットとも呼ばれるそれは魔法使いの口にいくたびものぼった。彼あるいは彼女もしくはそれ、秩序を組み換えて混沌を真とする空想の信徒たちに、熱烈な思慕をもって囁きかわされるその名前。
 マチステア・ヴァはその日、頭を砕いてやった魔法使いの欠片を小瓶に詰めた帰りだった。ゾヨイヤは珍しく上膊の肉をいくらか敵にくれてやって、少なくない量の血を流していた。彼はどうも自分より魔法に弱い、青ざめた顔でこう言い残して衛生局のバンに乗った、「ぼうやは一人で帰らなきゃいけないな!大丈夫かい?」。これが相棒を馬鹿にしているのではなく本当に思いやりと気遣いから発しているのだと気づくためにはーーやはり"少なくない"時間を過ごさなければならないだろう。ヴァはこの白髪頭のおどけた男が、とくにこういう仕事のあとでは、自分を心配するのがよく分かっている。今日の魔法使いはまったくの小娘で、瞳は猛々しい反抗心と青い使命感に燃えていた。こういう若い命はただでさえ厄介なのに(諦めより死を選ぶ)、この15歳をやっと超えたばかりに見える少女は自らを創り変えることができた。熟練すれば欺けぬものはなく、また人間を変化させるすべを承知しているという意味でも、最も危険な領域に属する力だった。だからヴァは容赦するつもりはなかったし、ゾヨイヤもそれは同じだった。というよりこの男はどんなものに対しても平等に仕事を片付ける。とにかく、情熱とも使命感とも無関係な桟橋をぶらつくこの執行人という存在は、相対した若い芽を摘むべく廃工場で彼女を撃つことにした。弾丸は彼女の硬いうろこに覆われた尻尾に弾かれて床を穿った。それにかぎ爪の擦れる音、そして規則正しく並んだ尖った牙をがちがち鳴らす音が続いた。彼女の姿ときたら竜そっくりだ、そういえば最後に動物園に行ったのはいつだろう?ヴァは叔母の手のこまやかな凹凸を懐かしく思い出した。そこから先は概ね普段と変わらずに進んだ。追い詰められた魔法使いが暴れ、執行人は致命的な一撃を叩き込む機会を窺う。しばらく大立ち回りを演じたのち、ついに好機は訪れた。壁から引きむしったパイプを、ゾヨイヤが自分の腕の肉と引き換えに、魔法使いの一番柔らかい部分へ(つまり目だ)突き立てた。人とも獣ともつかない叫びが響き渡り、むき出しのコンクリートに転がったパイプが耳障りな音を立てた。彼女は滑稽なダンスのようにたたらを踏んだ。右目のあった場所から、赤い血がとめどなく溢れ出ていた。手負いの魔法使いには気を緩めずに止めを差せ、とは執行人が最初に学ぶフレーズで、ヴァはその通り銃を構え、変化の解けはじめた彼女のやわらかい額を狙った。 次の瞬間、魔法使いの最期の抵抗は思わぬ形で行われた。黒髪の執行人が感じたのは、奇妙な非現実感だった。"非存在感"と形容すべきかもしれない、彼は自分で自分を認識できなくなりつつあった。振動しぼやけた視界の端で、ゾヨイヤが何かを叫んでいた、膜一枚隔てたように聞き取れない。だが恐らくこういうことだろう、ヴァはそこにあるかも分からない指先に力を込めて引き金を引こうとした。銃声とは異なる重い金属音が反響し、彼は負けを悟った。
 途端に何もかもが鮮明になった。生暖かいものが滴る感覚に顔を拭うと、手袋が安っぽい赤色をした液体と細かい砂利のようなもの、それからプディングじみた有機物にまみれた。あたり一面に同じものが広がっていた、一点から放射状に。若い魔法使いの頭は半分から上が綺麗になくなり、たちの悪い冗談のように、舌を垂らして笑っていた。ヴァは震える手で内ポケットから小瓶を取り出すと、肩口に張りついた大きめの脳のかけらをそこに入れた。
あの(この、というべきかもしれない。手の中の小瓶は確かに手の中にあった)魔法使いは、今までにも執行人を殺したことがありそうだった。好戦的な魔法使いは皆そうであるように、彼女もまたラ=クウィン・ラと呼ばれる誰かのためにそうしたに違いない。嫌な気分だった、ヴァは通行人がおぞましい絵の具で汚れた執行人に送るある種の好奇心には慣れていたが、今日はそれが不愉快でならなかった。誰かのために殺すのと自分のために殺すのではどちらが正しいのか考えあぐね、彼の興味は報酬を何と交換するかに移った。

 ゾヨイヤ・ベルツンは担架の上でこぶしを握りこんだ。あの娘がヴァのほうを狙ったのは幸運だった。大昔にセタ系とくくられていた人々は、魔法にはすこぶる強い。自分なら、とブレンタ系にアムナンシの混じった血をしこたま流したばかりの男は眉根を寄せた、あれをやられたのが自分なら、失ったものは血液どころでは済まなかった。あの程度の魔法使いに他人の消去を完遂することは不可能だったろうが、それでも彼女は固定なら十分に得意そうで、命と引き換えに執行人へ致命的な損傷を与えてやる覚悟(あるいは望み)があった。
「痛み止めを?」
 医務官の声が降る。ゾヨイヤは表情を和らげながらそれを断った。傷ついた執行人の手当ては衛生局の仕事だが、彼らはこの人殺しの面倒を見るのは、あまり好きではなさそうだった。「それより寒いんだが、ちゃんと暖めてくれたのか?」医務官──ウェーブのかかった黒髪、やや暗い色の肌、ニグラール人の血が濃いーーは呆れた顔で輸液剤のパックを軽く叩いた。「毛布をかけてあげる」執行人は微笑んで返事の代わりにした。それで何だったかな、そうだ、人を消す覚悟……
 ヴァが頑張ってくれていて良かった。ゾヨイヤは相棒の輪郭にピントが合わなくなった瞬間を、彼が銃を取り落とした場面を思い出し身震いする。そして、とっさに叫んだ一言を相棒が聞いていなかったことを祈った。『お前の怖れるものは何?』懸命で隙だらけの未熟な魔法使い、それも自分を変えようとやっきになっている若い娘には効果てきめんの呪文が、彼女の意識に届くよう創像するのは簡単だった。あのかわいそうな少女は自分が嫌いだったんだろう。急に方向を変えられた魔法は彼女が心の奥底で望んでいたことを中途半端に叶えてしまった。ヴァはいなくなりたかった娘の破片を浴びて放心していたようだった。その癖彼はゾヨイヤが懸命に作り話をするにも関わらず、自分が撃ち殺したのでないことを執拗に証明したがった。こんな時に鋭いところを見せるなよ。白髪頭の執行人は同じくらい白い顔で相棒に言い聞かせたのだった、「君がどう言おうと確かに弾はそこにあるし」さっき創ったばかりの潰れた弾が、血だまりに転がっていた。「薬莢は君の足元だ。もういいだろ、魔法使いの頭の中で何が起きてるかなんて知ったこっちゃないが、魔法使いが魔法を、使っている、最中だったんだぞ?派手な爆発が起きないとは誰にも言えないさ」
 このずんぐりしていかにも頑固そうな男は全く納得した様子を見せなかった。医務官に渡されたタオルをそのままつき返し、乾きかけの血と脂とその他の組織にまみれたまま、徒歩で局へ向かうらしかった。「ぼうやは一人で帰らなきゃいけないな!大丈夫かい?」ゾヨイヤは彼の背中に一言かけてやらずにはいられなかった。親を亡くした子供の背中。孤独と空白に親しんだものの背中。相棒は振り返らずに片手を上げて応えた。車のドアが閉まり、彼はみるみるうちに小さくなって見えなくなった。思い出話の時間軸が現在に追い付いてきた、今うっすらと感じている吐き気が貧血によるものなのか、車の不規則な揺れによるものなのか、受けたばかりのストレスせいなのか、ゾヨイヤには分からなくなった。若い魔法使いを破滅させたのは誰だったろう。『お前の怖れるものは何?』ベルツンの末息子は親しげで冷ややかで澄みきったその声を思い出す。ゾヨイヤが答えると、朗らかに嘲笑った。『なぜ?そんなものを怖れる必要はないのに。だってお前は』「あともう少しよ」別の短い回想がまた彼の顔を険しくしていたようで、医務官の親切が執行人へ言葉をかけさせた。「早いとこ着いてくれないと僕は報酬をもらい損ねるよ」軽く調子を合わせて、あとは愉快な事だけ考えることにする。思い煩うだけ無駄だ、なるようにしかならないのだから。

 ラ=クウィン・ラはクウィン・ラ・テットのほうがもとの名前に近い。ソブレンタと呼ばれていた国の生まれで、当時から遊び好きのすてきな魔法使いだったそうだ。誰もが忘れ去ってしまうほど長いこと地下に幽閉されていたクウィン・ラが日の下に出てきたのはごく最近のことで、その頃には魔法使いとそうでない人間たちがおもしろいゲームに興じていた。目的などない、ただ盤に揃った駒を動かしているだけだ。ゾヨイヤ・ベルツンはそれをよく知っていた。あの日、旧い魔法使いを相手にした彼の駒は、嬉しそうに微笑むその人の手によって、残らず盤上から取り去られてしまっていた。