ジズルマク・スゥが魔法使いを目にしたのは、11年の、やりきれないほどじめじめした雨の日のことだった。仲間からはマットと呼ばれていた彼は、むやみに大きく膨れ上がった鞄を抱えて、急ぎ足にマルマリノフの着飾った大通りを抜けていくところだった。排水溝に流れ込む雨に色を吸われて、町は喪服に身を包んでいた。誰のための葬儀かな。ジズルマク……マットの頭に浮かんだのはこの神経症を患った都市が丸ごと墓穴へ沈んでいく様子だった。 葬列は海まで続き、石棺はコミカルなサイズ。汚された海の女神が化物を葬る悦びに震えながら、死者へ手向ける花を束ねる。脳裏を舞い散る花びらの後ろから、あるいは目の前に、それは突然現れて割れ鐘のような声で口をきいた。
「助けてくれ」とすがり付く指先のひびだらけの感触を認識するより前に、マットの本能が震え上がった。これは関わってはいけないものだ。異常な臭いがした。「すまない、急ぐんだ」逃れようとずらした動線に追いすがる男、踏み出した拍子に目深に被っていたはずのフードが、いともたやすく外れてしまう。髪のないひどく皺だらけの頭、顔の半分は干魃にあえぐ地表のようで、目はさながら地に落ちたまま萎びていった果実のごとく縮こまり、瞼の隙間からはみ出していた。「頼む、助けてくれ。執行人に──」
男の哀願が掠れて潰れ、草笛の音そっくりに後を引いたまま雨の音にかき消された。無事なほうの目が飛び出んばかりに見開かれ、血のにじむ唇から薄皮が浮き上がる。マットが身を引いたのと同時に、男は糸の切れた人形のように力を失って倒れ、路上の汚水を跳ね散らした。もう息をしていない。ただジズルマク・スゥの肺から吐き出された空気が彼の歯にぶつかって立てる喘ぎだけが、雨音に混じりあった。数秒のあいだ、マットは微動だにしなかった。人が死んでいる。
「君も不幸な男だな」
背後からかけられた声がジズルマク・スゥを凍りつかせた。ひどく耳に心地いい、あどけなさすら感じさせる澄みきったそれは、女声かもしれなかった。よく磨がれたナイフ。小さい頃、家族で買った丸ごとの豚を、肉屋をしていた叔父が鮮やかに切り分けてみせた、あの刃のひらめきを思い出す。「君は私の顔を見たいかな?ああ、そんなに震えないで。君は私より子供じゃないだろう?私を見ない代わりに、あわれなものを見てしまったね。突然驚かせて本当に、心の底から申し訳ないと思っている。どうか執行人に言いつけたりしないでおくれ。あれはまったく私のミスだ、君は出会うはずのない人間を二人も君の短い──おや、飛び上がったね!まるで曲がり角で猫の爪を目にした鼠のようだ──君の短い人生の中に組み入れてしまいそうになった。だからどうぞ振り返らずお帰り。そう、いま息を吐いたね、随分ゆっくりと吐いたものだ。それでいい、君は私の顔を見たりしない。私に繋がるなにも残そうとはしないだろう、ね。あの恐ろしい"死の天使"は、ためらいなく自分の弟を送って寄越すに違いない。自分の言うことを聞かないやつが嫌いなんだ。おや、もう一言も耳に入れたくないという背中だね、また息が詰まってる。いい心がけだね、そのまま振り返らずにお行き。そして私の声を忘れてくれるね」
裸電球の曖昧な光に満たされた部屋のなか、ジズルマク・スゥはボウルに入ったしなびたジャーキーを手にとると、長いこと埃だらけの暖炉の上に置きっぱなしにしていたスキットルの蓋をひねった。質の悪いアルコールが焼けつくような感覚を食道から胃袋の底へ流すと、冷えきった心臓に火が灯ったように思えた。乾いた肉の繊維を引きちぎる歯の感触が、乾ききって醜くひび割れた肌のことを想起させかかる。やめてくれ、ベッドの縁に腰かけると、固いスプリングが断末魔の草笛のように軋む。やめてくれ、窓枠の真ん中で、煤煙で汚れた夜に青みがかった月が釘づけられている。あの声の主はきっとこんな色の肌をしているに違いない、瞳は濡れたアスファルトの漆黒、「私の声を忘れてくれるね」、その声は降り続く雨の水煙のなかにあって、はっきりと輪郭を保ったままいつまでも反響した、漆喰の剥がれた四面の壁が、棺の沈黙で囲むこの夜の底で。