トバイアス・ブラウンは円形の居室の壁に柱のように広がった八本の脚を折り曲げて、もったいぶった速度で天井から下がってきた。寸詰まりの胴体は構造色の緑や紫に彩られ、辛うじて比較的人らしい形を保った頭部では、小さな口肢が無数に(さほど無数でもない)蠢きながら、カステラのようなものを奥にある口へ運んでいた。その姓に違わぬブラウンの髪は綺麗に分け目をつくり、くりくりした7つの瞳の上には特別に誂えた丸眼鏡のレンズが光っていた。「それで、」異形の発する声は見た目を裏切って雑音を伴わず響いた、ただし明らかに喉以外の部分から。「新世界の老いぼれが何を知りたくて僕の所へ来たのかな」"新世界"。テットが知っている旧世界の人間は彼だけだった。魔法使いの始祖の時代を生きた最後の人間。これがまだ人間と言えたらの話だけれど。
「私が老いぼれに見える?」テットはあどけなさの残る少女(少年)の顔を綻ばせた。「ずっと歳上の癖に」
外骨格の化け物は枝分かれした触肢の先で細かく机を叩いた。「君はもちろん新世界の老いぼれで、僕は旧世界の老いぼれさ。誤解しないでくれよ、ナノマシンの研究が」咳払い。「失礼。『魔法の』研究が、こんな遥かなおとぎの国の向こうまで僕を運んでくれるとは思ってもみなかったことでね。途中からとはいえ昔話のできる友人がいるのはありがたいんだよ。わかるかい?おとぎの国は良かったな。竜の飛ぶ空が好きだった。リマルイといったっけ、あの竜飛行士にまた会いたい」
「トバイアス、私はそろそろジョーカーを切りたいんだけど」
新世界の魔法使いは前置きなく本題を切り出した。旧世界から生きているこの男に好き放題思い出話をさせていたら、命がいくつあっても足りない。ハル・ユネーテ・リマルイが竜で世界を飛び回ったのは、テットが産まれる前の話だった。「もっと簡単にできるんだろう?」
7つの目が一斉にテットを見る。「君はひょっとしてゲームを終わらせたい?」
「そんな訳ない。面白くしたいんだ。だって退屈なんだもの。執行人は結構優秀だし」そういえばあの執行人は、挿し絵で見たリマルイに似ている。「私の持ち駒は同じくらい優秀。もう少しで火がつくような気がするけど、あまり矢面に立つと危ないから」
「誰を消したい?」
「ロザイア・ベルツン」
「なるほどね」また7つの視線がバラバラに散った。口肢が代わる代わる口に差し込まれ、カステラの屑が消えて綺麗になる。「やってみたらいいのに。君なら一人くらいは結構綺麗に消せると思うよ」
「やってできないことはない、それはそうだね。ただ、もっと簡単にできないかって話。私以外の人間にやらせたいんだ」
触肢は人間の指先のように、ボウルからマシュマロをつまみ上げると、Ministry of Technologyと飾り文字がプリントされたマグカップの中へ落とした。同じ作業が繰り返され、マシュマロが3つ、湯気の立つココアに浮かんだ。
「残念だけど、みんなが簡単に、っていうのは無理だね。そのへんはお上が厳しかったし」賑やかな口元へマグカップを持っていき、液体を溢さず器用に流し込む。「だめだめ。そんな目をしたって無駄だよ。うん?みんなじゃないって?いやいや、そういうことじゃない。持ってない人にやすやすと権限を与えるってこと自体がまずいんだ。この話は終わり」
彼が終わりと言ったらこの話は終わりだ。はじめから期待はしていなかったから、テットは肩をすくめただけで応え、非難がましいことは口にしなかった。それに彼は面倒だと思えば邪魔な人間を即座に消してしまうだろう。前に一度そういうことがあった、テットが連れてきた男は力ある魔法使いの始祖に直接の加勢を頼み、相手の苛立ちに構わず執拗に食い下がった。後に残ったのはその男が存在しない世界で、テット自身もトバイアスから聞かされるまでその日そういうことがあったのを覚えていなかった。というより、そんな男のことは知らなかった。以来もう誰も伴ってきたことはない。
「シュラク、クッキーは?」
「いただくよ」
バターの香りを楽しみながら、クウィン・ラ・テット・リマシェーン・シュラクは異形の魔法使いの昔話に耳を傾けた。あともう一時間くらいはお茶と焼き菓子を楽しみたい気分だった。今日の話はノイルの初代皇帝が"賢い竜"を屠り、呪いを受けたところから始まった。