「君は私の娘を助けてくれたそうだね」と、どこかから声が響く。がやがや騒がしい共有の仕事場で"第43席"に割り当てられたスペースは3歩で横切ってしまえる程度ものだったが、いまは天井からぶら下がる異形の怪物を柱にして、いくぶん押し拡げられているようだった。ある種の甲虫が鞘羽を彩る緑、観測者が首を傾げればあらゆる色相をうつろう緑の甲殻は節を作って華奢ともいえる身体を包み、人間でいえば首の付け根にあたる部分から、先端で枝分かれした触肢が垂れ下がっていた。人間でいえば。腕を落とした人間の上半身が、太い蔓の先端で反り返っているような、おぞましさはあれど、どことなく見るものの笑いを誘う風体と言えなくもなかった。頭部は苦し気な姿勢にも微動だにせず、地平とほぼ垂直に立っている。下顎をずたずたに切り裂いた無数の口肢と、額から左右対称に配置された黒い瞳、そして身体と同じく表面を覆った硬質な組織を大目に無視すれば、頭部のつくりは普通の男のものに近かった。特にその茶色の髪はきちんと整えられていて、7つの目の上にかけられた丸眼鏡と並び異様だった。
「贈り物をしたいんだ、ロザイア・ベルツン。子はかけがえのないものだからね」
白髪頭の魔法使いは寛いで椅子の背にもたれた。幻覚かどうか迷うまでもなく、これは比類ない力でもたらされた魔法だった、現実を意のままに歪める改変の技法。衝立の向こうで職務を怠っている同僚も、書類を抱えて無意味に走り回らされている事務員も、部屋の誰ひとりとしてこの奇妙な甲殻類の存在に気づいていない。娘というのが一体どの娘なのか、見当もつかなかった。
「私に何を与えられる」
「権限をひとつ」
化物は即答した。「君らなりの言い方をすると、君の魔法における才能の扉をひとつ、開け放してあげるってことだ。想起と創像のあいだにタイムラグがなくなる」絶え間なく蠢く口肢の奥ではないところから、笑声が転がる。ロザイアは端正な顔を僅かに歪めて懐疑を示した。
「どんな魔法でもか」
「勿論」異形はまたも即答した。一瞬全ての部分が静止し、額にある瞳の焦点だけがクルリと円を描いた。「君はもう理解してる、そうだね。娘が言っていたように、十分に力があるようだ。だが万能じゃないだろう、この小さな贈り物で君は一分野のみだが無限に伸びることができる。望みを……無論このままで構わないという望みでもいいんだが、言ってくれればすぐに出ていくよ。退屈な仕事に戻るといい」
触肢の先端が冗談めかして広げられた。この化物がほんの戯れ程度の認識で彼なりの"お礼"をしようとしているのは明らかだった。
「ならば死を」
「死?」
そんな使いでのない物を、とあからさまに含ませた声色だった。
「死を」
「物好きはいつの時代にも居るものだね。いいよ。なら君はまず死を知らなければ」
おもむろに触肢が伸ばされる。電気を消すように、ただ何もかもが闇に包まれた。空間も時間も失せて、自分さえもなく、何も存在していなかった。見知った感覚が戻ったとき、ロザイアはまず開く瞼があることに感嘆し、忙しないオフィスのざわめきから、この世界の生が滾滾と湧いては流動する情報に満ち満ちていることを知った。
与えられた虚無はロザイア・ベルツンの脳の一部になった。彼はそれを他人の内に見いだすことができる。想起と創像は融け合いひとつになった。そして永遠に固定されるのだ、魔法使いが他者の死を望んだ瞬間から。